未開人の情報、文明人の情報
感受性が豊かだとか鈍感だとか言う場合、それは刺激を受けとるパラボラ・アンテナの表面積が広いか狭いかの違いを言っているのではない。たくさんの刺激を受けとることが、かならずしも感性を豊かにすることには結びつかない。感受性の差とは、受けとった刺激の量ではなく、受けとった刺激の処理方法や処理能力の個人差のことだ。さまざまな刺激を取捨選択する力、「情報」としての意味を感じ取る力の差である。
「情報」であれ「意味」であれそれらは世界に絶対的にあるものではない。つまり、誰が見ても「情報」だと思えるようなかたちでドンとあるものではない。それが意味ある情報かそうでないかは、常に受け取る人に依存した相対的なものだ。個人一人一人ですべて異なり、また社会のあり方や時代によって異なっている。当人にとって意味の無い刺激は単なる雑音だ。ある社会にとっての真の情報は、別の社会にとっては虚偽となるかもしれない。当人やある社会にとって意味のある刺激は情報として入っていくが、意味のない刺激はすべて捨てられてしまう。
刺激を受け止めるためのアンテナ表面積には個人差が少ない、と仮定しよう。一見どんなに多量の刺激要素を与えたとしても、限られた表面積で受け止めうる情報量はそのうちの限られた一部でしかない。「未開人」と「文明人」の間にその表面積の差はないと言っていいから、両者の持っている情報量はほとんど同量である。違いがあるとすれば、情報の内容だけだ。もちろんどちらの情報が質が高いなどとは言えない。文明の思考があるように野生の思考がある、と言うのと同じである。 Copyright(C) Watanabe Tatsuro
満員電車のパラドックス
ここで情操教育、早期教育を考えてみよう。例えば日本語と英語を日常的に半分ずつ使う環境で育った子供はどうなるか。ある場面では日本語を普通に話し、ある場面では英語を普通に話すだろうか。現実にはやや英語なまりのある日本語とやや日本語なまりのある英語を喋るかもしれない。いずれにしても母国語を持たない人間が出来てしまう。一種のクレオール語を話すことになるだろう。
人間の脳は一つしかない。これは決定的な事実だ。刺激を一度にたくさん与えればそれに比例して刺激がたくさんの情報として大脳に組み込まれる、才能が育てられる、と考えるのは愚かしい。ある刺激を与えることは別のある刺激を与えないことを意味する。最も簡単な例をあげると、音楽を聞かせている最中に静寂を聞かせることはできない、というようなことだ。ここで静寂は刺激ではないなどと思う人がいるとすれば、初めからお話にならない。静寂にも意味はあり、静寂も情報となり得る。ある人にとって静寂は安らぎを意味し、また別の人には恐怖や不安をもたらす。野性的な暮しと都会的な暮しを同時に体験することも不可能だ。ウイスキーとビールを同時に飲めば二つの楽しみが合わさって味わえるどころか、一つの楽しみさえ味わえない。要するに、子供にある限定された教育を受けさせるということは、その時間のあいだは他の情報刺激を遮断しておくことになる。遮断してしまっている方の刺激がほんとうはずっと重要だとしても。
一方で、田舎は静かでいいが刺激がなくてつまらない、やっぱり都会からは離れたくない、という心理もある。しかしその場合も、刺激の量に違いがあるわけでなく、質のほうに違いがあるのだ。都会的な刺激は確かに初めのうちはまさに刺激的であっても、やがて慣れてしまう。麻痺してしまうと言った方がいいかも知れない。あるいは刺激の多くを自分から遮断してしまう。すべての刺激にまともに対応していたら気が変になりかねないための、心理的な防衛機能の一つだ。
満員の通勤電車を想像してほしい。あんなところで自分が人間であり続けることは不可能だ。周りがカボチャか大根だと思わずにいることは不可能だ。だから不思議にもというか当然にも、あれだけの人間がいるのにだれ一人として目と目を合わせて電車に揺られている者はいない。全員が、だれとも視線を交錯させないように自分の体の向き、顔の角度、眼球の回転を調節している。こうして、都会は刺激が多いにも関わらず情報が多いわけではない、という状況が生まれる。このパラドックスに気づいている都会人はいるだろうか?Copyright(C) Watanabe Tatsuro
感性マヒ、他人への依存
現代社会では、モノがあふれているように見えながら、実際はいつも何か新しいモノを買い求めたい欲望に人々は追い立てられている。同じように情報もあふれているというのに、いつも何かが足りないという不安にさいなまれている。何が意味ある情報なのか分からない。あふれかえるモノと他人が作った情報の刺激を遮断しようとする生理的反応と、新しい刺激を求めたいとする欲求とのあいだで、ジレンマに陥る。だから満足というものもない。そういう状態にある人が田舎に突然引っ越した場合、刺激の空白におそわれる。都会的な刺激にはそれなりに反応できるが、田舎に豊富に存在しているようなまったく異質の刺激を受け止めるための回路は退化してしまっているからだ。
この状況をたとえてみると、新幹線や高層ビルといった密閉空間での人と情報の関係。 外気にふれることは出来ないので、外の気温とか風のそよぎとかの情報はまったく感じ取れない。それを知るには電話やテレビ、インターネットなどの通信手段を使ってだれかに問い合わせなければならない。窓を開けさえすれば自分で分かることを、そんな間接的な手段で他人に聞かねばならない。そこに自分の感性マヒと他人への依存が生まれる。現代社会はこの密閉空間をどんどん拡大してきたので、もう感性マヒとさまざまなメディアによる人間の情報支配が行き渡ってしまっている。だれかがマスメディアでああ言えばああなるし、こう言えばこうなる。養殖池でこっちにエサをパッとまくとこっちにワッと魚が集まり、あっちにエサをまくとあっちにワッと集まる。そう言う状況になった。気象庁に「梅雨明け宣言」を出してもらわないと梅雨が上がったかどうか自分の感性で判断することすら出来ない、そういう人間が大量に生み出された。「宣言」してもらわなくたって自分の五感で感じ取ればいいだけのことなのに・・・。
同じようなシステムに通信衛星を使ったGPSがある。自動車に組み込まれるカーナビゲーション、洋上の船舶が自分の位置を知るためのGPSは、いま登山にも持ち込まれつつある。もう山登りで地図を拡げて周囲を見渡しての地図読み技術など不要になるかも知れない。自分で情報を集め判断するのではなく、他者が与えてくれる情報への依存が深まる。こちらの方が「便利」でかつ「正確」で「すぐ役に立つ」。アフガニスタンの米軍特殊部隊が携帯したというモバイル・パソコンは、宇宙の軍事衛星を介してタリバンやアルカイダ兵士を「正確かつ効率よく」殺すのに効果を発揮したそうだ。殺人もここまでハイテク化してくると、もはや当人たちには、自分が遠くにいる生身の人間を肉の破片にしてしまっているのだという意識を持たないで済ませられるようになった。彼ら兵士もまた、空調のきいた高層ビルの密閉空間に暮らしている人たちとまったく同じ状況にある。Copyright(C) Watanabe Tatsuro
[追加補足]:本国に帰還した米軍特殊部隊兵士が妻を殺す事件が3件も起きているらしい。かつてベトナム戦争から帰った兵士に精神の異常が多発したという話を思い出させる。アフガンの特殊部隊兵士は実際には、爆撃現場に行って人間の肉の破片を見つけ回収し、それがビンラディンかオマル師かを検分する任務も与えられている。それはパソコンの画面を見て「情報」を得るのとわけが違う。目の前にナマの現実があり、それに直面しないといけないのだ。だから、かれらは空調のきいた高層ビルのオフィスに暮らし続けることはもはや出来ない。自分が人殺しの一味であることを自覚するほか無かろう。
情報の真の宝庫はどこにあるか
さてインターネットに話題を移そう。インターネット上にある膨大な情報もまた、この密閉された高層ビルの情報と同じ性質を持っている。つまり自分自身の肌で感じ取った情報はひとつも無い。 人間と外気を隔てる分厚いガラス窓の中だけで見る世界の情報だ。これを別の表現で言えば、「野生の情報」を排除した「栽培の情報」だけで作られている世界、ということになる。「栽培の情報」が情報のすべてだと思いこむとき、世界はゆがんで見えてしまうことだろう。栽培の情報の典型が文字によって構成された情報だ。インターネットに広がる情報とはその大半がこの文字情報だ。ブロードバンドの普及で高速データ通信が可能になって、狭い意味での文字情報だけでなく、映像データや音声データもインターネットから簡単に入手できるようになってきた。この映像や音楽のデータもまた「栽培の情報」の一つの形態だ。それらは、人が現場に出向いて自分の目や耳でそして肌で感じ取る「情報」とは同じものでない。平たく言えば、コンサートで聞く音楽と CD や DVD で自宅で聞く音楽の違いがそこにある。一見そっくりだが、これは全く異質の情報といえるだろう。
こうして、一人の人間が受け止める情報の大部分がインターネットからもたらされる「栽培管理された情報」で構成されるようになると、その人間は異様な世界に住むことになるだろう。ハイデッガー流に言うと、「世界-内-存在」としての「インターネット人間」がここに誕生する。
いま学校教育でさかんにインターネットを使った授業が行われている。何かについて「調べる}というと、WEB の検索エンジンでキーワードを入れること、それが「調べる」という言葉の意味になりつつある。先日も我が家の子供たちとその辺の話をした。「それって調べるとは言わないんじゃないのか?」。しかし今のご時世では「情報」を「得た」のだから「調べた」ことになるのかもしれない。確かに「情報」はインターネット上に無限にある、ように見える。繰り返すが、それは「栽培管理された情報」に「過ぎない」ことを忘れてはいけない。
世界には栽培されていない「野生の情報」が無限に存在する。それこそ情報の真の「宝庫」なのだ。バイオ企業が血眼になって世界中の未発見の「野生種」を探し回っていることを思い出そう。それには栽培種にはない未知の何かが隠されているかも知れないからだ。それを手に入れれば全く新しい食糧や医薬品等々を作り出せる可能性があるからだ。こうした情報の「宝庫」を忘れた情報教育がもたらす21世紀の人間に、創造力を期待するのはいささか無理というものだろう。現在の日本で多額の予算をつぎ込んで進められている「IT 教育」とは、そうした無能な人間を生み出すための浅はかな政策といえる。それによって IT 産業に金が流れ、産業構造の「高度化」が進み、日本経済の「構造改革」もはかられるかもしれない。それは同時に、ゼニカネのために子供の創造的未来を売り渡すという最も愚かしい道への選択でもあるだろう。Copyright(C) Watanabe Tatsuro