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インターネットの蜘蛛 ・・・[2007/2/9]

見飽きた。夢は、どんな風にでも在る。
持ち飽きた。明けて暮れても、いつみても、街々の喧噪だ。
知り飽きた。差押えをくらった命。----ああ、『たわ言』と『まぼろし』の群れ。
出発だ。新しい情と響きとへ。

アルチュール・ランボオ『出発』(小林秀雄訳)


実業と虚業。
今はこういう言葉も死語なのかも知れないが、まだ高校の名前にはそういうのがあるのではないだろうか。ハンカチ王子とか。

昔の感覚からすると、商業、工業が実業で、農業漁業林業は産業のなかに入れてもらえるかどうか分からない境界線上にあるもの、という感じだろう。よく、田舎を形容する表現として、「農業以外ににこれといった産業もない地域」というのがある。まあ、農業なんてのは、低級下等なしごとなのだから、仕方ないか。吉幾三の世界だな。

逆に虚業といったら、代表的なのが物書き・文筆業だった。大学で言うと「文学部」とか芸術大学とかだね。で、だいたいが、早い話、実業は金もうけにつながり、虚業は貧乏につながる、という一般的な受け止め方だっただろう。裏を返すと、実業は貧乏人が金持ちになるために目指す道、虚業は金持ちの子息がカネを失うために目指す道、というのが正しい定義といえる。マックス・ウェーバーならどう定義したのだろうか。あるいは福沢諭吉ならば。

だから、言葉の語感どおり、売文業などの虚業は軽蔑の対象であって、若者にお勧めできるようなものではなかった。

しかし、どうだ。現代は、虚業の方が繁栄して、実業は落ち目のニッポンじゃないのだろうか。まあ、定義にもよるのだが、ハードウェアよりもソフトウェアの方がカネになる時代だ。かたちのない物、食えない物、の方が、かたちがある物、食える物よりも経済価値が高い。経済価値が高いことはそちらの仕事をする人間の方が人間的価値も高いという話になる。したがって、そういう産業に若者は集まる。「産業構造の高度化」とか「成長産業」とか「生産性」とかいうお話なのだ。

インターネットは正しく虚業の巣窟。そこに巣くっている人、毎日、蜘蛛の巣(Web)を行ったり来たりしている人。そういう人生の過ごし方が、今の時代は好まれているのだ。

注:Web というのは、ホームページと言った方が普通の人には分かりやすいかもしれない。ホームページの URL アドレスにある www というのが World Wide Web の頭文字をならべたもの、といえば簡単。世界に広がっている蜘蛛の巣なのだ。

というようなことを、よそのブログをパラパラと読み飛ばしながら思った。
>> アルファ・ブロガー2006
どこがアルファ・ブロガーなんだかね。

*            *

蜘蛛は蜘蛛の巣の上だけで一生を終えるのだろうか
きのう飛び交っていた虫々は、やがて姿を見ることもかなわなくなるだろう
飢えた蜘蛛は生きながらに、晩秋の破れた巣のうえにひとり残される
それとも、雪の近いある晴れた日に
上昇気流に糸を流して舞い上がるときが来るのだろうか
どこへともない旅に。