消費期限を越えた材料を使った「罪」で世間に叩かれていた不二家が3月8日、改善措置についての報告書を埼玉県川口保健所に提出した。報告の中には、現場の管理者の「職人的判断」に任せたのが良くなかった、そういう風潮がよくなかった、という分析も記述されているそうだ。(参考:「イカレタ日本社会1 不二家事件」)
ならば、科学的データに任せていれば良かったのか。そんなことはあるまい。機械的に決められた「消費期限」を遵守してさえいればよかったのか。そんなことはあるまい。
職人に任せれば、仮にちょっと判断を誤ったとしても、現場ですぐに間違いが分かる。何が間違っていたか分かる。ところが、「科学」に任せると、現場はかえって自分自身の知覚感覚で判断することを放棄する。データにおんぶにだっこ状態。これは科学的データをそのまま信じてしまうために、つまり科学を疑っていないために、事態をはるかに悪化させる。そして、判断が間違っていることに気づくまでにとんでもなく時間がかかる結果を招く。そのあいだに本当の深刻な被害がひろがっていってしまう。
これが、科学を「信じる」ことの危険性だ。いったん信じてしまうと手がつけられなくなる。科学的に出た結論だから疑う方が間違っているということになる。疑うやつは非科学的人間、無知蒙昧、野蛮人ということにされる。もちろん、間違ってはいけないが、わたしは科学的判断を否定しろと言っているのではない。科学というのはいつも事実と照らし合わせて正しいかどうかを判断する学問だ。事実とちがっていれば修正するのが科学であって、いちど判断したらそれを絶対に正しいと思いこむことが問題なのだ。
決められた期限だから絶対だということになると、その決められた基準だけを守っていれば正しいことになる。しかし、マニュアル上で決まっている基準より早くに何かの理由で品質が悪化している、という事態はありえないのか。ありうる。
そういう好例が、気象庁桜開花予報のとんでもない「失敗事件」だった。
3月7日に発表した桜(ソメイヨシノ)開花予想について、計算プログラムに取り込んだ気温のデータにミスがあった。結果、東京、静岡、高松、松山の4地点について誤った予想を出していた、という「大事件」。静岡、高松、松山は「観測史上最も早い」ということになっていた。これがてんで間違っていた。静岡は13日の予想を19日に修正(最新予想は21日)。東京は18日を21日に(同23日)、高松は17日を26日に(同29日)、松山は17日を23日に(同25日)ということになった。
あれは、予報官が桜の樹の下に行って花芽の状態を常々自分で見ていれば起こり得ないような、じつにお粗末な誤予報だったと言える。コンピュータ人間は、おうおうにしてデータや数字を信じ込んでしまう。そして常識的な感覚を見失うものである。という真理の証明だった。
そもそも「消費期限」なるものは、その日を境に品質が天と地ほどに変わってしまうものなのだろうか。そういう性格のものではない。その期日設定に絶対の合理的根拠などはない。にもかかわらずその日を過ぎたら使ってはいけない、使ったやつは地獄か刑務所暮らしだ。というムチャクチャがまかり通る世の中が出来てしまった。
不二家は山崎パンに教えてもらって、アメリカ仕込みの品質管理システムにするのだそうだ。職人的な「あやふやで間違いやすい」品質判断は捨てましょう、というわけだ。山崎パンというと、聞いただけでまずそうなパンを思い浮かべてしまうのは、わたしだけだろうか。まあせいぜい「安全」で「安心」で「まずい」お菓子を作って売ったらいいでしょう。