「きちっとした歴史認識をもて」
読売新聞によると最近つぎのような騒ぎがあったそうだ。TBS を叩く論調、罵声ばかりがわき上がったようだが、わたしは全く別の感想を持った。
福島県会津若松市は28日、東京放送(TBS)系のクイズ番組で戊辰戦争時の若松城(鶴ヶ城)のイメージを損なう放送があったとして、TBSと番組制作会社に24日付で抗議文を郵送したことを明らかにした。
抗議文によると、番組は2月16日に放送された「歴史王グランプリ2008まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」。若松城について「旧幕府軍が城を明け渡したとんでもない理由とは」との出題に対し、糞尿が城にたまり、その不衛生さから」が正解とされ、理由のすべてのように放送されたとしている。
菅家一郎市長は記者会見で、〈1〉他藩からの応援の望みが絶たれた〈2〉1か月に及ぶろう城による傷病兵の増加や物資の枯渇――など様々な要因が重なった結果と説明。「視聴者や市民らに著しい誤解や不快感を与えた」とし、市民への謝罪と訂正を求めている。 2008年3月28日
福島県会津若松市がTBS系のクイズ番組を巡って抗議文を送った問題で、TBS側は31日、謝罪文を提出した。
番組では、旧幕府軍が若松城(鶴ヶ城)を明け渡した理由について、「糞尿が城にたまり、その不衛生さから」を正解とした。市は「それがすべてのように放送され、イメージを損なわれた」と抗議していた。
謝罪文では、要因は複数あると認識していたが、バラエティー番組という側面もあったとしたうえ、「主な理由として扱い、市民の心情に配慮を欠き、深くおわびする」とした。訂正放送は「(クイズ番組は)単発なので困難」とした。
菅家一郎市長は「この回答では市民の憤りは収まらない。きちっとした歴史認識をもってもらいたい」と話している。2008年3月31日
美しい戦い
人には、戦争を美化したいという、なんとも抜きがたい欲求があるらしい。 戦(いくさ)は、すべてが美しく始まって美しく終わらねばならない。戦士たちの美談がちりばめられた戦いが人々に好まれて、それが「歴史」として伝えられていく。とくに自分は直接体験したわけではなくても自分にも多少のつながりがある戦争について、人はそれを美化したい欲求を抑えがたく持っているようだ。戦いはいつも聖なることばで飾られる。兵士はみんな清らかな真情に死んでいく。そういうストーリーだ。
しかし、言うまでもなく、現代の戦争であれ、昔の戦(いくさ)であれ、戦争の本質はぶざまでみにくい殺し合いだ。
明治元年1968年の戊辰戦争。薩摩長州の新政府軍と旧幕府軍との戦い。 WikiPedia による戊辰戦争
山形県鶴岡市の致道博物館には旧西田川郡役所が移築保存されていて、そこの展示品の一つに戊辰戦争の絵図がある。そこには、政府と荘内藩の両軍が白兵戦をくりひろげている様が描かれている。多くの兵が首を切りあい、血がほとばしっている。明治以前の戦の様子はこういう修羅場だったのだろう。多くの若者が日本刀をふりかざして殺し合う様を想像すればいい。会津若松城の戦いも本質は殺すか殺されるか、だったはずである。
大義名分はいろいろあっても、それは現実の戦にあっては何の役にも立たない。敗者を美しく描くエセ歴史は、人情でもって戦いの真実を覆い隠す、という意味で一種の犯罪行為ともいえる。かりに勝者の側にある者であっても、人殺しの場に長くいることで精神的に異常を来すこともよく知られている。ベトナム帰還兵しかり、イラク帰還兵しかり、だ。(異常を来さないほど強い精神力をもっていることが、はたして褒めるべきことなのかどうかは改めて論じなければならないかもしれないが、ここではそこまで踏み込まない。)勝者さえそうなのだから敗残兵はなおのこと惨めの極みであって、美しく負けるというようなことはあり得ない。仲間を殺してでも自分だけ生き延びようとさえする。ときには人の肉を喰い、自分の小便を飲むことになる。人の悪魔性がむき出しになるのが戦争の現場というものだろう。
降伏は恥か
それから、戦争はある長い時間にわたって人がやるものだから、毎日の食欲をどう満足させるか、食べたものの排泄をどうするか、若い兵の性欲をどう処理するのか、という生き物としての日常生活管理が何よりも重要なことだ。いわゆる「歴史」として記述されるものは往々にしてこの当たり前のことを伝えない。とくに一般庶民に受けるような、美しく格好いい「歴史」だけが本当の歴史であるかのように伝えられていき、庶民はそれに酔う。たとえば、NHKの大河ドラマでも見ればそれが分かるだろう。
鶴ヶ城の開城、降伏も、いろんな理由があったのだろう。が、たかがテレビの、たかがバラエティ番組の糞尿譚に、政治家としての市長が抗議するというのも、大人げない話だと思う。そもそも糞尿が原因で降伏することがそんなに恥ずかしいことなのだろうか。もっと高級な原因がないと降伏するのもみっともないのだろうか。
こういう事件ですぐ思い出せるのは、太平洋戦争の無条件降伏を美しい「終戦」といまだに呼んで格好だけ付けたがる、敗戦国の国民の心情のことだ。降伏の惨めさを隠すための高級な大義名分を探しあぐねているうちに、どれだけ多くの人々が犠牲になって死んでいったのか。2発の原爆投下という衝撃的なきっかけがなければ、さらにいつまでも死者の山が築かれていっただろう。
この種の「恥」の意識と戦争の「美」意識は、はるか昔の戊辰戦争をどう受け止めるかという場面でもまたまた出てくるらしい。こうした「美と恥」意識でもって歴史を歪曲することのほうが、よほど罪は大きいと考えるべきだ。そういう降伏=恥という心理にとらわれている者が、他人の歴史認識の「誤り」をうんぬんしようとすること自体、おかしなことだと思う。
シンデレラの城
現在の鶴ヶ城はコンクリート製のニセの城である。歴史的価値は何もない、いわば観光用のディスプレーにすぎない。大阪城など日本にはこの手のいんちきな「歴史的建造物」がいっぱいある。こちらのほうが、文化的によほど恥ずかしいことだと思う。世界の他の国々の歴史的遺跡は石造がふつうだから、ある程度風化していても、現物そのものとしての価値を保っている。日本の場合、一部の例外をのぞいて数百年の間の戦乱などで焼失したか、残っているものも何度も修復再建された遺跡がほとんどだ。城として再建あるいは修復されたもの、寺社仏閣として再建された木造建築などは、それなりの歴史的価値をのこしている。しかし、コンクリート製の城は戦う城、藩主の居城として再建されたものではない。ただの観光施設だ。いわばディズニーランドにあるシンデレラのお城である。ただ客寄せのための・・・。
もう、この時点で、会津若松市にそびえるコンクリート城は、郷土の誇りも歴史の重みもあっさりと捨ててしまった市が、全国に発信している、安っぽいイメージそのものなのだ。会津市民はこれまで、そう感じたことは一度もないのだろうか。糞尿譚によるイメージダウンをとやかく言う以前の話として、コンクリート製の城は郷土の文化的恥辱だ、とわたしなら思う。
清らかな「聖戦」が始まる
たんに一地方のメンツに過ぎない下らない話なら、わざわざ問題にすることもない。そうではなくて、重要なのは、こういう話の底を流れている無意識の心理、戦争は美しい物語でなければならないという大衆的な深層心理、その恐ろしさなのだ。真の戦争は美しくはない。血にまみれている。糞尿にまみれている。そのことを忘れた大衆は、かんたんに戦争に動員される。ちょっと美しい言葉を並べられただけで大衆は酔い、興奮し、清らかな「聖戦」が始まってしまうのだ。それは遠い昔々の歴史のお話ではなく、今日明日に起きるかもしれない現実なのだ。