今日畑でりんごの剪定をしながらラジオを聴いていたら、視聴者から NHK に届いたファクシミリに「近くで桜の樹を剪定していた。まあ残酷、可哀想に、桜の枝を切るなんて。切られた枝をもらって帰って水に活けて置いたら花が咲き始めた」とあった。最初にラジオから「剪定は残酷」と聞いたときはちょっと驚いた。私なんか毎年仕事でりんごも桜桃の樹もバチバチ鋏で切るはギコギコ鋸で落とすはしているから、そうとう極悪非道な人でなしの仲間だ。そう非難されているようにも聞こえてきた。枝を切り落とされた桜の樹が可哀想、というのは心やさしい感情の表れ。と解釈しておこうとも思うが、かなり無理がある。正直理解できない感覚だ。童話の世界ならひょっとしてこういう「やさしい」心をもった人物が登場してくることもあるかも知れない。それでもカッコ付きのやさしさだが・・・。
剪定は人間のつごうで枝を切る作業だから、切られる側にしてみれば迷惑千万ともいえるだろう。普通、樹は放任しておくと、扇状というか、ほうき状というか、枝が毎年外へ外へと伸びていく。どの枝もまったく同じようにより日当たりが良い方へと競争するかのように新梢を伸ばす。するとどうなっていくかと言えば、樹の外側の球面を新しい枝が埋め尽くして、樹の内部には光が届かない空間が残されて、そこは葉っぱのない古い枝だけの世界になる。これはじつは植物にとって最も効率の悪い光の受け方になる。体積の割りに葉っぱが少ないからだ。まこと「自由」の結果がこれだ。それぞれの枝が自分が有利になるように光を求めて「自由競争」で成長していった結果だ。枝ぶりを見ると、それぞれの枝は幹の中心から外に向かってひょろひょろ伸びて、その先ッぽに葉っぱが少しついているだけだ。
果樹でこういった自由放任の伸ばし方をすれば、体積の割りに実が少ない樹ができる。枝は皆ひょろひょろだから成った実も弱々しく小さいものになる。こんな仕立て方をする農家にカネがさっぱり入ってこないのは当然だろう。それではだめだから枝を切るのだ。剪定をして樹の中にまで光が入り込むように邪魔な枝を取り除く。光が入ってくれば、そこの枝に花芽も葉芽もできて樹全体まんべんなく元気な花が咲いて見事な果実が実るようになると言うわけだ。これは人間が介入した結果はじめて実現する。桜のばあいは実を成らせるわけではないから、果樹ほど効率を考えなくてもいい。しかし基本は同じはずだ。植物にとって光を受け取ることの重要性においては。だから、桜の枝を剪定している職人を見て、なんて可哀想なことをする人だと思うことが本当に優しい心根と言えるかどうか、考え直してもらってもいいのではないか。
さて、りんごは枝に光が当たるとその部分が活性化してそこから新しい枝が伸びてくることも多い。「潜芽」といって、一見すると何もないようだがそこに芽が潜んでいる。これは光が充分当たって初めて芽を出す。当たらなければ何も起きない。りんごは枝をバッサリと切ってもその空いた空間を埋めるように新しい芽が生まれ新しい枝が伸びてくる。一方、桜や桜桃の場合、枝を切り落としたあとの復元力はりんごと比べるとかなり弱い。新しい枝が活性化されて伸び出すことが少ない。つまり切り落とした部分は切り落としたままになることが多い。それに桜類は、太い枝を切るとその切断面から枯れ込みが入ってくることに注意しなければならない。りんごでは多少太い切り口でも切り口に肉が盛り上がってきてやがて傷を塞いでしまう能力をもっている。桜、桜桃ではその修復力が弱い。「桜切る馬鹿」とはこのことを戒めているのだ。下手に切るとそこから樹が枯れてくる。とくに太い枝になればなるほど切断したとき樹全体に強烈なショックがおよぶ。桜や桜桃の剪定はそうしたところに細心の注意をはらって、なおかつ光が樹体内部にまで入り込むように、鋸を入れる。桜と違って梅のほうは剪定で樹が衰弱することは少ない。むしろ枝を若返らせ花芽を内側つまり幹に近い側に戻してやるには、枝をある程度切りつめたり間引いたりした方がよい。それでしっかりした樹の枝ぶり、骨組みが出来るから、自然、しっかりと梅の実を成らせられる。
剪定というのは人間だけの勝手な作業、身勝手な荒仕事、なのではない。樹の機嫌を損ねないよう、樹の反発をなるべく小さく収めるよう、樹の伸びたい気持ちを聞きながら、慎重かつ大胆に切る。それが剪定だ。樹の勢いをなだめなだめ、だましだまししながら伸ばしたい方へ誘導していく。剪定はむずかしい。一本一本の樹はそれぞれ違う心を持っている。果樹農家も一人一人違う心を持っている。枝の切り方に人柄が出てしまう。剪定とは枝を切らないことと見つけたり。そううそぶいた人もいた。いかに切るかではなくていかに切らないかだそうである。よくわからん。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。これは人間の教育論にも通じるはずだし、政治論にさえも通じる。自由、放任、規制、強制・・・。