1週間前、東京第5検察審査会が小沢一郎を政治資金規正法違反で強制起訴する議決をした。去る4月の1回目議決につづいて2回目も起訴相当。
議決の内容はあまりにもお粗末、幼稚なものだが、そのこと自体については他の色んな人が批判論評しているので、わたしはパスする。
第2回議決については新恭氏の論評:『永田町異聞』(10月5日)
第1回議決については『弁護士阪口徳雄の自由発言』(4月28日)
二つの異常
ここで問題にしたいのは、検察審査会審査員11名の平均年齢が34.55だったことだ。4月の第1回目議決の当時の審査員11名が34.55歳だったことと併せて考えると、この異常さについてやっぱり何か書いておかなければならないだろう。
異常さには二つの意味あいがある。
ひとつは平均が34.55歳になったということそのものの異常。つまり選挙権を持つ成人から無作為にクジで審査員を選んだばあいにこういう平均年齢になるはずがないだろうということ。それも2回もつづけてだ。平均が30歳そこそこということは審査員のおよそ半数近くは20歳代ということを意味する。この世代の偏り方はふつうじゃない。高齢化ニッポン、40代50代60代70代の日本人はいったいどこに消えてしまったのか。
『事実は小説よりも奇なり』(The Journal 10月13日)
もう一つの異常は、これらの審査員が全員一致であの議決をしたことにある。現代日本の20代30代の人間はこれほどバカな人たちの集団なのか、という衝撃だった。「アラサー」ならぬこの辺りの世代は思考能力や批評能力がまるっきり欠けているのではないか、という衝撃的な事実。法律の素人だからこんなこともあるだろうと言うレベルの話とは思えない。素人だってふつうの常識ぐらいはある。自分で考えるアタマぐらいは持っている。素人だから、ではなくて、彼らが常識さえ持たないレベルだったから、こういう議決を平気でやってしまったのではないか。ということだ。
一つめの異常も怪しさ満載のブラックボックス、検審制度の暗闇の深さを見せつけたが、わたしは二つ目の異常のほうにより大きな興味を抱く。顔ぶれの違うふたつの審査会メンバー11人ずつが、ほぼ同様の子供じみた議決をした。なぜこの世代はこうなのか。その原因はどこにあるのか。
異物排除
この人たちは1970年代から1980年代に生まれた男女だ。バブル後の「失われた10年、20年」に青春を送った世代。就職氷河期を経験した年代が含まれる。で、この人たちの親は昭和20年代から30年代に生まれた、いわゆる戦後民主主義の子供たち世代なのだ。わたしもそこに含まれる。その戦後民主主義の落とし子が育てたのがこの第2世代。
そしてこの幼稚さはこの世代特有の現象なのか、それとも今の日本人全世代に共通する幼稚化なのか。それも重要な点なのだが、この2回の議決だけでは分からない。
この若い世代の人たちのことを考えていたら、たまたま次のページがあった。
『伽藍の世界・橘玲公式ブログ』
このブログを見て、ああそういえば今年は年の初めから國母選手の「腰パン」騒動があったなあと思い出した。
國母については、わたしも触れた。『腰パン』(2月20日)。
2月にはこんなことも書いた。『安心安全社会の朝青龍』(2月5日)
こうした社会的事件に共通するのは、他と違うものへの嫌悪と排除だと思う。個性的な人間を袋だたきにしようとする社会心理。清潔恐怖症にも通じる。とにかく手を洗うのが止められなくなるような心理。「クリーン」にたいする度を過ぎた愛情。「汚い」ものへの攻撃。みんなと同じにしなくてはいけないという強迫観念。異物は徹底的に叩け、というリンチ嗜好。そんな感じかな。
この20代30代の人たちで書いておくべきことがある。もちろん、断っておくが、これはわたしから見た一般的な印象であって、個別の一人一人を見ればそれぞれまったく違うだろう。
白いマスクの人々
去年の豚インフルエンザ大騒動のときのことだ。たまたまその時期、5月に東京を経て大阪へ行く用事があった。そのころの関西地方は神戸を中心に患者がぞろぞろ発生し始めていて、騒ぎは止まらない状態になっていた。大阪のJRや地下鉄駅を行く人々はマスクをする人が目立っていた。そこで気づいたのは、マスクをしているのはほとんどが20代30代の男女だという不思議な事実だった。中高年でマスクをかけて歩いている人は余り見あたらなかった。
この変な、都会の雑踏の光景を今思い出している。この世代はなぜマスクをするのか。それを考えてみた。それは簡単に言えば、「豚インフルエンザはきわめて危険な病気である、マスクで感染が予防できる。マスクを買いなさい」そういう大キャンペーンが日本では政府マスコミあげて展開されたからだ。それは世界的に異様な大キャンペーンだった。これについては、『マスゾエ・ウィルス』と『情報免疫力が欠けている』あたりに去年も書いた。
清潔指向と保守主義
それと、若い世代の妙な健康志向も気になる。
若さとは良くも悪くも「命知らず」の別名だろう。自分が明日死ぬなんてことは夢にも思わない。健康な暮らしをしようなんて発想はない。それを気にかけるようになったら、もはや老人だ。インフルエンザだ、と騒いで真っ先に自己防衛のマスクをする。それは老人病患者だと断言できるだろう。この世代が老人化しているとしたら、自己の保身を優先するようになっているとしたら、そう思うと暗い気持ちになるな。この国の未来は、暗黒だ。
人間は無菌の工場で育てられた「清浄野菜」ではない。「無菌豚」ではないはずだ。この世は、無菌消毒された清浄な世界ではない、本当は。自分たちだけが清潔で健全で正義な側にいる、なんてことはあり得ない。
もしかして彼らは保守的で、しかも閉鎖的な心性を持っているのではないか。たとえば、わたしの経験からして、この今の30代前半あたりの人たちは「個人情報」にやたらうるさい、特異な傾向を持つ世代だという印象がある。自分の所在も素性も明かさないことへの執着は、わたしから見れば常識レベルを超える。
匿名社会の暴力
結局、この若い世代は匿名性をこよなく愛する世代のように見える。2ちゃんねる的な匿名の暴力に、たぶんほとんど抵抗感を感じていないのではないか。池田信夫氏のいう「ネットイナゴ」のように、匿名でしかも集団となって特定の個人を攻撃する。彼らは自分を隠す。自分という個性をむき出しにすることを避ける。雑踏でマスクをするのは、彼らの人格のシンボリックな表れだ。自分は清潔な側にいる。自分は仮面としてのマスクで匿名性に守られている。悪や病原菌は自分の「外」にある。
雑踏でマスクをする人にとって、マスクとは彼、彼女の人格のメタファー(暗喩)なのだ。白色、清潔、自己防衛、保守、排他、匿名。
だから、彼らは平然と「自分たちは正義だ」とうそぶくことができる。嫌なヤツは縛り首にしろ、と叫べる。そうするのは疑いなく正しいことなのだ、と。検察審査会という匿名のマスクに守られて、彼らは平然と「正義」の議決、「悪」を裁く決定をする。彼らは匿名でしか行動しない。できない。自己責任で、すべてのリスクにさらされるような表舞台に出てくることはない。自分の名前を明かすことはしない。ということじゃないかな。
関連する社会的事件としてはこんなことも書いた。
『パロマ湯沸かし器殺人事件』(5月28日)。
これは自分で判断する能力の退化とも言える現象だ。同時にそれを企業や大組織のせいにして、「正しい市民」目線から「悪」と見なされたものを責め立てるリンチ社会のひとつの例でもあった。ほんとに市民が「正しい」かどうかは問われない。市民イコール正義、という単細胞思考。
さて、もう一度、疑問をくり返してみる。なぜ、こんな世代が生まれたのか。