脱原発神話 第13章 ・・・薪で焚いた風呂につかって考える再生可能エネルギー [2012/12/23]

木はどういうプロセスで薪になるか

2012年の12月17日は冬の晴れ間で、これから深い雪に埋まってしまう前にやっておかねばならない仕事、外で乾かしてあった薪を小屋にしまう作業を一日がかりでしたのだった。わが家のある地域は冬は積雪が1メートル50ほど、時に2メートルを超える。わたしがツイッターでつぶやいた薪割り連続ツイートをネタにこの章を書くことにした。

腕の太さぐらいの薪なら10本もあれば一晩の熱い風呂が焚ける。ついでに食器洗い用のお湯も蛇口から出せる。風呂につかって身体が温まったところで、この薪1本ができる過程をちょっとたどってみよう。何の変哲も仕掛けもない、ただのリンゴや桜桃(サクランボ)の樹からとった薪だが、そこにはいろんな意味が詰まっている。

薪割り
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果樹農家はたいてい2月3月ごろ剪定作業をする。枝切りだ。それから春になって芽が出て葉っぱが出る前の時期、4月には不要な樹、老木、病気でダメになった樹を倒して新たに苗木を植えることになる。倒した樹体は燃料につかうために薪にする。できる薪のその体積は普通乗用車、ワゴン車1台分ぐらいのボリュームになる。

さて、薪1本を人力だけで作ろうとすると、どういうステップが必要なのか。まず、スコップで根を掘り出しマサカリで太い根を叩き切ったあと、木を引いたり押したりして倒す。つぎに、のこぎりで長さ30センチくらいの輪切りにしていく。それをひとつひとつマサカリで割っていく。いずれのプロセスもいうまでもなく重労働。つまり人間エネルギーを追加投入しないと木は薪になっていかない。人間のエネルギーとはご飯をたらふく食べることで生み出される。要するに、コメとか肉の持っていたエネルギーが元になっている。いわばこれもバイオマス・エネルギーのかたまりだ。

チェーンソー
つぎに、このプロセスに動力を入れるとどうなるか。人力の負担を軽くするためには動力が必要になる。木を倒すには重機を使う。このとき重機は軽油を消費しながら動く。つぎに倒した樹をチェーンソーで輪切りにしていく。チェーンソーはガソリンとオイルの混合油で動く。切った木はトラックに積んで家まで運ぶ。そこで油圧式の薪割り機を使って割っていく。この薪割り機は電力で動かすので、このとき電気消費量が増える。こんなふうに、ここではすべてのプロセスで人間の代わりを化石燃料や電気がやってくれる。人間が肉体労働を嫌がれば、化石燃料無しには薪は一本たりとも出来ない。そういうことだ。薪は「自然」に出来るものではないことがお分かりか。

太い木を割っていくのに、わたしはマサカリ(斧)派だが、息子は力仕事が不得意で油圧式薪割り機を使っている。薪割りは痛快だが、ガッツがないと割れないし、危ない。集中力と気合い。もちろん与作は汗をかく。へいへいほー。

樹を倒すのは人力でもやれなくはないが、大変。樹木はかんたんには倒れてくれない。そもそも根っこは倒れないためにあるのだから土にがっしり食い込んでいる。たいてい毎春、数本から10数本倒すので、小さめの樹を除いてほとんど重機で倒さないとやってられない。もちろん根っこから倒さずに根元を伐って倒す方法もあるが、それでは大きな切り株が残ってしまう。跡地の再利用が制約される。それからプロセスでぜったい必要不可欠と思うのはチェーンソー。太さが30センチ40センチの幹を鋸で引くのはほとんど不可能だろう。労力的にも時間的にも無理だ。

重機やチェーンソーをふくめて、要するに薪1本は純粋に自然のエネルギー・再生可能エネルギーというわけではない。人間のエネルギーと化石燃料がつぎ込まれて初めて樹は薪になる。薪という最終製品のかたちに持っていくにはエネルギー投入と時間が必要だ。

脱原発!とか言っている人はまあ、たまに与作暮らしを体験してみたら勉強になると思う。エネルギーのありがたさがわかる。"アタマの中"だけで「これからは再生可能エネルギーの時代だ」と思っている人は、自分の"肉体全体"でエネルギーを自然界から取ってくる、集めてくる意味を考えたほうがいい。理屈だけでエネルギーが出来てくれるわけがないことがきっと分かるだろう。


さて、ここまでは樹を倒すところから後のプロセスを見てきた。とうぜんのこと、大きな樹が始めからそこにあるわけではない。タネや苗木が10年20年30年と長い時間をかけて大きくなったのが目の前にある樹だ。そして、その何年もかけて太陽エネルギーを蓄積しながら大きくなった樹木を倒さないと、毎晩、風呂にも入れない。倒した後はあらたに苗木でも植えなければ「再生可能」とは言えなくなる。それがまた大きく育つのに数十年の歳月。

数十年で育った樹も、薪にして燃やせば、風呂に1ヶ月か2ヶ月も入るとすべてが灰になって消える。作るのには大変でも消費してしまうのは一瞬だ。つまり生産と消費に時間軸を加味して考えると、再生可能というのはウソなのだ。

自然界のエネルギー密度は低いので、それを得るためには長い時間と広大な面積の土地が必要になる。必然的に自然の改変破壊をともなう。樹は倒さないと薪は出来ない。しかも人力や化石燃料を投入しないとそれは得られない。これは太陽エネルギーも風力も水力もまったく同様のことが当てはまる。

薪で炊いた風呂に入るのと太陽光や風力発電はぜんぜんちがう、と思っている人は、中学高校で物理化学をもういっぺん勉強し直してきてくださいな。

クロネコヤマトの宅急便

『文明崩壊』
ジャレド・ダイアモンド
「テクノロジーが問題を解決してくれるから、心配はいらない。木に代わるものが見つかるさ」 ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』より

自然エネルギーは無限だから大丈夫。安心安全。それに安い。というお気軽・お気楽な妄想に、日本人はとらわれているのではないだろうか。「再生可能エネルギー」ということばには、使っても使っても減らない、という夢のようなイメージが含まれている。なんと。「再生可能」だと!!。こういうことばを平気で使っている。しかも、再生可能エネルギーがこれからはエネルギーの主体になるのだ、と。ほんとですか?

現代的なテクノロジーとしての太陽光発電や風力発電と古くさい与作の薪ボイラーとは、オモテに見える姿はずいぶん違ったものだが、その基本を流れる原理原則は同じものだ。それは、エネルギー保存の法則であったり、熱力学の第2法則だったり、費用対効果の経済原則だったり。つまりどちらも科学と経済の原理にのっとっている。

森の水車やオランダの風車がなぜ今は観光施設にしかならなくなったのか。手打ちそば屋のディスプレーにしかならなくなったのか。それは言うまでもなく動力としての経済性が悪いからだ。水の流れや風の力を人間が使いやすい回転運動、往復運動のようなかたちにエネルギーを変換する、その効率が悪い。そこで得られるエネルギーは弱く不安定だ。しかも取り出したエネルギーはその場で使うしかなく、持ち運びができない。その欠点をテクノロジーで改善してきたのが、現在の風力発電や水力発電ということになる。

太陽光発電も同じ。太陽エネルギーを光合成で樹木の形(炭素化合物)に変換固定して薪として利用することと、同じ太陽エネルギーを太陽電池で電気に変換することは、オモテの方法はちがうが中身は同じことをやっている。つまり分散して密度の低い光エネルギーをいわば濃縮して使いやすく運びやすいコンパクトな商品、エネルギーの"缶詰"にする作業だ。

自然界に薄く広く広がるエネルギーをかき集めて、薪1本という最終製品にする。密度の薄い自然エネルギーを集めて、家庭のコンセントにたとえば交流電圧100ボルト30アンペアの電気という最終製品のかたちで届ける。この両者のプロセスは基本的にまったく同じ原理原則にしたがって成り立っている。どんな現代テクノロジーだろうと、その原理原則から飛び出すことは出来ない。再生可能エネルギーの利用とは、ただ電気という製品をつくるだけでなく、消費者にその商品を安定的に届けなければいけない。しかも低コストで。

問題の第一は、太陽も風力もこの変換効率の宿命的な低さ・悪さにある。発電に必要な広い面積と空間と時間。この物理的な制約は、どんなにテクノロジーが発達してもついて回る。ソーラーパネルを一面に敷き詰めなければ、太陽は捕まえられない。多数の風車を乱立させねば風を捕らえられない。しかも、風まかせ、お天道様まかせの不安定さ。

問題の第二は、集めてつくった電気を消費者にとどける過程で非効率な送配電システムを通り抜けなければならない。再生可能エネルギーは、大規模集中型の原子力発電所とちがって小規模分散型電源だ。小規模分散電源というのは電源として高コストなだけでなくて、それを消費者に届ける送配電システムのうえでも高コストを余儀なくされる。なぜか。

クロネコヤマトの宅急便をイメージしてみれば分かりやすい。

宅急便は、街角や村にあちこち散らばるコンビニやらの代理店から荷物を集めてきて、それを送り先地方別に仕分けして、各地に配送、各家庭に配達する。果樹農家であるわが家のなじみ深い産直システムは、クロネコが各農家を回って荷物を集めることで成り立っている。代理店の数が増えれば増えるほど、代理店が分散すればするほど、荷物の集荷コストと手間は増大する。どこかの数少ない拠点大工場から製品を各家庭に届けるのと比べれば、その経済的負担の大きさが想像つくだろう。宅配に目が向きがちだが、集荷にもクロネコの本質がある。

実際の数字をあげよう。東北地方の農家が関東地方に果物を送るときの運賃はどの程度か。複数果樹農家の加盟する出荷組合をとおしてリンゴをまとめて関東の卸売り青果市場に出すばあい、日本通運から一箱当たり200数十円の請求書が来る。これが、産直の宅配だと一箱当たり1000円前後にまでなる。

大規模生産工場から量販店に商品を大量一括配達してそこで消費者にモノを売るばあいに比べれば、あちこちの町工場で作った製品を少しずつ集めてきて各戸別に配達していく宅配システムが高上がりになるのは当たり前だ。それでも宅配システムが成り立つのは、コストを超えるニーズがあるからだ。この非効率性と高コストの問題が、そっくりそのまま、小規模分散電源としての再生可能エネルギーに当てはまる。分散しているものを集めてまた分散させる。そういうシステムの宿命なのだ。

生産と消費をつなぐ物流が"地産地消"でまかなわれる社会があり得ないことは第2章『スモール・イズ・ビューティフル』でも書いた。それに加えて、物流がぜんぶクロネコの集荷宅配システムになることはあり得るのか。集荷宅配システムには確実な需要があるけれど、それは物流の一部特殊なニーズによるものだ。この世の物流経済は規模のメリットを無視しては成り立たない。物流をすべて"産地直送"でまかなおうとすれば、恐ろしく高コストでエネルギー多消費な非効率社会が出来るだろう。あなたは、トイレット・ペーパーを産直で買おうと思うか?

この、非効率であっても、採算が取れなくても、それでも再生可能エネルギー利用を進めるのだ。と言うのなら、それ相応の負担を覚悟する必要がある。電気料金が上がってもかまわない。端的に言えばそういうことになる。欲しいときに手に入らなくても我慢する。そういうことになる。

現代の化石燃料は、なぜ低価格で手軽にエネルギーを取り出せるのか。それは、遠い過去の長い時間をかけて植物や微生物の身体の中に蓄積した炭素化合物を、これまた地球が長い年月を費やして石油や石炭、天然ガスのかたちに作り替えてくれたおかげだ。使いやすいかたちに変えてくれた。その原材料費も加工費もまるでタダ。人類はこの太陽と地球と数億年の時間に感謝しなければいけない。これを太陽エネルギーを使った炭素の大循環、地球時間のうえで展開する巨大サイクルと考えれば、化石燃料は「再生可能エネルギー」の大親分なのだ。

その一方で、今流行の「再生可能エネルギー」を礼賛している人たちは、地球と太古の時間の偉大さを軽く見ているのではないだろうか。自然界に散在しているエネルギーを現代テクノロジーでちょこちょこっと変換処理してやれば、かんたんに、短時間で、無尽蔵に電気が手に入る。化石燃料と同等のエネルギーがたやすく手に入る。何となくそんなふうに思いこんでいるとすれば、それはリアルでクールな物質世界を甘く見ていることになる。

ドイツもスペインも再生可能エネルギーで大失敗しつつあるのは、この再生可能エネルギーの本質的な限界が分かっていないからだろう。リアルでクールな物質世界を脱原発というイデオロギーや宗教でもって飛び越えることはできない。アタマの中だけで脱原発を考えているから道をまちがえる。彼らに欠けているのは、汗をかいて薪1本つくることだ。物質世界を甘く見るとかならず泥沼に足を取られてしまうことになる。やがて底なし沼にはまりこんでいくのだろう。

ドイツ:再生エネ普及で電気代高騰、戸惑う国民 野党批判、首相「想定外」と釈明
毎日新聞 2012年12月22日 東京朝刊

【ベルリン篠田航一】風力や太陽光発電など再生可能エネルギーの普及で電気料金高騰が問題になっているドイツで、来年秋の総選挙(連邦議会選)をにらみ、電気料金を巡る与野党の対立が激化している。来年から消費者が料金に上乗せして支払う「賦課金」が1・5倍に上がり、標準世帯の年間電気代は平均1000ユーロ(約11万円)に上る見通し。脱原発の「必要経費」として国民負担が増大する現状を巡り、国民の間にも不満が広がっている。

永久機関の亡霊

『永久機関で語る現代物理学』
わたしは一応、子供のころは科学少年だった。高校生のころだか読んだ本の中に「永久機関」の話が載っていたことを微かに記憶している。で、その手の本は今ないかなと探したら、右の本が見つかった。中に出てくる永久機関の絵図を見て、そうそう、あの頃の本に載っていたのと同じだな、と思い出した。以下の引用部分は同書より。

人間が古来抱きつづけてきた"夢"の代表的なものに、「錬金術」と「永久機関」がある。

この開発にかたむけた人間の努力は並々ならぬものがあった。残された永久機関のアイデアを眺めていると、手探りと試行錯誤の中で、英知の限りを尽くした人々の苦労の跡がうかがえる。

参考:「永久機関」とは(Wikipedia)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E6%A9%9F%E9%96%A2

しかし、「永久機関」の夢は19世紀の半ば以降、エネルギー保存の法則と熱力学の第2法則いわゆるエントロピー増大の法則によって完璧に打ち砕かれて、葬り去られた。そんなものは原理的に絶対に、天地がひっくり返っても出来ない、と宣告されたのだった。

再生可能エネルギーはもちろん「永久機関」とはちがう。しかし、この再生可能ということばにはウソがある。一度使ったエネルギーがまた再生されて出てくるかのようなインチキな印象を平気で与えている。楽をして、タダで、エネルギーが無限に手に入れられるかのようなイメージをふりまいている。これでは「永久機関」とたいして変わりはない。

「再生可能エネルギー」と高らかに歌うとき、それは取り出すための手間、かき集めるためのコスト、蓄積させるのに必要な時間、集めて分配するコストを、まるで意識させないようにしている。密度の薄いものをかき集めるためには、コストだけでなく、その過程でエネルギーさえ消耗する。そのうえ、やっと集めたエネルギーも、使うのはほとんど一瞬だ。たちまち空に消えていく。

これは、原理上の問題、原理的な宿命であって、技術の進歩でどうにかなる性質のものではない。太陽光発電や風力発電がこれからの主役だ。技術革新がその時代をもたらす。そんなことを言っている人がいるとすれば、それはホラ吹き男爵か詐欺師だ。だまされると後でとんでもない請求書が回ってくるだろう。

再生可能エネルギー、それは現代によみがえる「永久機関の亡霊」とさえ言えるだろう。



 

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