自然エネルギー。自然学校、自然食品、自然農薬、自然生活、自然療法、どんな言葉も自然とつけただけで幸せになれそうな気がしてくる。
野良猫がいいか、飼い猫がいいか
石炭・石油・天然ガスは自然エネルギーではない? 石炭は元は太古の植物、石油は元は太古の微生物、それを地球の自然が長い時間をかけてエネルギー資源に変えた。それは自然ではないらしい。一方でトウモロコシから化学的に作ったエタノール燃料は自然エネルギーの仲間らしい。いわゆるバイオマスだね。薪や木炭は自然エネルギー。焼鳥屋でもキャンプ場でも、自然エネルギーで料理を作っているのだろう。これがガスコンロだと途端に自然でなくなる。昔の練炭や木炭の掘りごたつは自然エネルギーで、石炭ストーブは人工エネルギーだったようだ。ふーん、そういうものかねえ。
日本のばあい、経済性と出力で最も有望と言われる自然エネルギーは地熱だ。なんといっても温泉は良いなあ。ところがだ。地熱はどこから来るのかと言えば、地殻深くの重元素がアルファ崩壊して出す熱エネルギーが貯まったものだ。アルファ崩壊つまりはこれは核分裂反応の一種なのだね。最後にお日様。太陽光を人工のシリコン半導体を使って電気に変える。太陽エネルギーは遠い天体の核融合反応だけど、これは自然エネルギーだそうな。ああ、わけ分からなくなるだろう。
まあ、こんなふうに、朝日新聞の「原発ゼロ社会」提言にある自然エネルギー政策とか、孫正義ソフトバンク社長が主導した「自然エネルギー協議会」の言っている「自然」の意味が、どれだけいい加減なイメージで使われているかが知れる。花鳥風月が自然というのが日本だ。だいたいからして、こういう情緒的なことばでエネルギー問題を語ることがそもそもおかしい。ウソがある。たとえば、イメージしてください。今、目の前にひろがっている田園がある日、一面に太陽電池パネルで覆われた。そこに立って、ああ、自然がいっぱいだなあ、と胸一杯に空気を吸い込んでみる。自然に包まれて幸せ。さあ、子供たちよ、トンボ取りでもしようか・・。
自然という言葉を聞いて、まず良いものだという感覚が心に浮かぶ人と、厳しいものだなあと思う人に分かれるだろう。 自然に近い人ほど自然の良さと同時に厳しさを体感しているだろうし、自然から遠い暮らしをしている人ほど自然に「あこがれ」だけをもつのかもしれない。自然はゆたかで安全安心で、人工は危険不安がいっぱい、という印象もあるだろう。
情緒的な印象とは逆に、実際はこうだ。
野良猫は一日中食べ物を探して歩かねばならない。痩せて、寿命は短い。飼い猫とは全然違う生活を送ることになる。「自然エネルギー」という言葉にも同じことが言える。つまり、野良猫のようにわずかしかないエネルギーを探し回らねばならないのだ。とうぜん広い縄張りが必要だ。広い縄張りに生きられる猫の数は限られている。太陽光や風力とはそういうものだ。とうぜんそのエネルギーで支える生活は不安定で、しかも乏しさや飢えがつきまとっている。
それなら、「再生可能エネルギー」という言葉をつかえば、情緒的でなくクールで合理的な議論ができるのだろうか?
水力発電所は山の地形と川の流れを壊すことで建設できる。再生可能と言うものの、川は土砂を運んできてダムを埋めていくものだから、とうぜん寿命がある。トウモロコシなどのバイオマスは、肥料成分をつねに畑に加えてやらなければ土地が痩せて存続しない。肥料成分はもちろん無限にあるわけでない。
太陽光はたしかにほぼ無限だろう。半永久的に地球に降り注ぎつづけているという意味で無限に手に入るものだろう。しかし、降り注いだものを人が使えるエネルギーの形に変えなければダメだ。その変換の方法と、その変換効率について次のページがよく整理してあって参考になる。
>> 佐藤しんり:『太陽光エネルギーの利用とその限界』 http://www.d7.dion.ne.jp/~shinri/solar_energy.html
「脱原発」をかかげたドイツが頼りにしている洋上を含めた風力発電、これも自然環境に与える影響は小さくない。一年を通して風が吹きやすい地理条件を満たして、なおかつ広い面積を必要とする。風切り音の問題もある。景観の問題もある。しかも大地震や大津波がおそってくれば、洋上でも海岸線でも風力発電構造物がどうなるかは想像がつく。
日本最大の風力発電所「新出雲ウインドファーム」建設をめぐる混乱については、以下の建設反対派ウェブに経過などがまとめられている。この地域はわたしの生まれ故郷でもあるので、書かれている地域的な状況はよく分かる。まあ、賛成反対は今のわたしの立場では何とも言えないが、風車というものが必ずしも美しい物語の主役にはならないいい例だろう。
>> 出雲市の風力発電事業 http://www.geocities.jp/alfalfaljp/begin/began/huryokuhatuden/top.html
また、開業後の事故と経済的な困難については以下のページが参考になる。
>> WEDGE Infinity 「ジリ貧!日本の風力発電」(2009年6月2日) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/387
>> WEDGE Infinity 風力発電事業が赤字だらけの理由 (2012年1月23日) http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1674?page=1
手元にある2010年版エネルギー白書(経済産業省)は、なかなか盛りだくさんで勉強になる。そして再生可能エネルギーについても重点を置いて記述してある。だが、上の佐藤しんり氏が書いているとおり、白書で書かれている再生エネルギー社会の実現、これは「願望」であって可能性は無いに等しい。わたしにはそうとしか読めない。エネルギー白書は政策的なねらいが入っているので、期待が持てそうなことを意識的に並べている。つまりそこにカネ・血税をつぎ込むための理由付けが盛り込まれている。しかし、けっきょく、再生可能エネルギーは見た目には孝行息子のような顔をしながら、どれも救世主にほど遠い道楽息子たちだ。要求する条件ばかりが多くてまったく当てにならないことがよく分かるだろう。
むしろ、これで脱原発が実現して、エネルギー問題があたかも解決できるかのように宣伝するのは、世の人々の判断を誤らせる詐欺行為だと言っていい。詐欺師が大手を振って街を歩いているのが今の日本だ。
ヒットラーの国の脱原発
読売新聞 2011年5月29日
原発政策に関するドイツ政府の諮問機関「倫理委員会」は5月28日の会合で、「遅くとも10年以内の脱原発」を勧告する最終報告書をまとめた。DPA通信が伝えた。
諮問委は科学技術、経済、教会など各界17人の代表からなり、最終報告を受け、メルケル政権は29日、与党・キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と自由民主党(FDP)の幹部による協議を行い、政権としての具体的な脱原発方針を決定する。地元報道によると、メルケル首相は最終報告に沿った決定を下す見通しだが、FDP内に異論があるという。
毎日新聞 2011年7月8日
ドイツ:脱原発法が成立 国内17基、順次停止へ
ドイツ連邦参議院(上院)は8日、2022年までに国内17基の原発を停止する改正原子力法案に同意した。既に連邦議会(下院)が先月30日に可決しており、これで正式に「脱原発」が法的に成立した。福島第1原発の事故後、運転を停止している旧式の8基はこのまま閉鎖する。残る9基については、15、17、19年に各1基、21、22年に各3基を順次停止していく。
まるで福島の事故が理由でドイツがとつぜん脱原発に方向転換したかのように、日本では報じられた。そんなことはないんだよね。前の社会民主党と緑の党の連立政権時代から原子力離れの流れがあったのが一時止められていた。それが今回、福島の事故をきっかけに生き返ったということだろう。
まずこの「脱原発」の実現可能性。あちこちで指摘されているのは次の点。原子力発電所が停止していくことで不足する電力は隣国から買ってくればいい。EU は国を超えた電力の相互融通システムを持っている。しかもその電気を売ってくれる隣国とは原子力大国のフランス、そして原子力発電国のチェコ。まるで東京電力が福島や新潟の原子力発電所から電気を首都圏に持ってくる構図とそっくりだ。もう一点、ドイツは石炭火力に依存してきた国。自国内に炭田を持っている分、石炭火力は全電力の半分をまかなう体制にある。原子力を減らす分を石炭でまかなうことのにはあまり無理がない。それから大きな注目点と思うのはつぎのこと。この勧告報告書をまとめたのが経済委員会でも科学技術委員会でもなく「倫理委員会」だったということだ。学者、企業の代表、キリスト教の指導者など17人の倫理委員会が議論してまとめたという。つまり、エネルギー問題は倫理の問題だと言っているわけだ。人間の倫理に対する信頼の大きさ、というか過大評価というべきか。それはいかにもドイツ的な、あまりにもドイツ的な。カントやヘーゲルでも出てきそうだ。いかにもイデオロギーの国。ザイン sein よりも ゾルレン solen を優先してしまいかねない、危うさいっぱいの国だなあと改めて感じる。異様な民族性とさえも・・。
わたしは残念ながら見なかった番組。2011年7月9日放送のNHK特集シリーズ原発危機 第3回「徹底討論 どうする原発」でレポートされたところによれば、倫理委員会では次のような議論があったという。
経済に配慮して稼働延長を認めるべきか、それとも早急に原発を廃止すべきか、議論の末、なにより優先すべきだとして全員が一致したのは、未来の世代に対する責任でした。
倫理委員会委員長:わたしはひとりの父親として自問自答しました。大量の廃棄物を生み、巨大事故のリスクを抱えた技術を、利用して良いのだろうか、負の遺産を未来の世代に押しつけることが本当に許されるのだろうか、原発の是非はたんなる経済の是非ではなく、倫理の問題として考えるべき課題なのです。
美しい話だ。倫理を語ることは。未来を語ることは。そして子供たちを語ることは。
しかし、何と言っても、倫理でエネルギーを生み出すことはできない。気合いで電気を作ることもできない。倫理は世の中の潤滑油にはなるだろう。しかし燃料にはならない。潤滑油だけで動くエンジンはない。倫理を語るのは結構なことだが、それを人に強要するようになると恐ろしいことにもなる。このドイツ人の「倫理」の中におそらく反近代思想の亡霊やロマンチックな自然指向が入り込んでいる。
エコロジー
今回のメルケル政権の方針転換のきっかけとなったのは、地方選挙での「緑の党」の躍進だったという。ドイツ「緑の党」といえばペトラ・ケリー党首を思い出す人もいるだろう。若くて美人だった。あれはまだ東西ドイツが統一される前、西ドイツの「緑の党」を世界的に有名にしたのが彼女だったとさえ言える。私的な原因だったと思うが自殺してしまったけど。
緑の党をはじめいわゆるエコロジー運動については、アンナ・ブラムウェルが『エコロジー 起源とその展開』という刺激的な書物を発表して、欧米のエコロジー運動をその成り立ちから分析している。原著は1989年、日本では1992年に翻訳出版された。この本は、とくにドイツがなぜ「緑」なのか、その理由と背景を多くの資料から批判的にまとめあげていて、良い書物だと思う。エコロジー運動の血筋と内臓を解剖して見せてくれる。正直のところ、わたしがこれを初めて読んだときは、エコロジーをおとしめる反動的書物だと思ったものだ。今はエコロジーに思い入れらしき感情はないので、あえて推薦しておく。ドイツのエコロジー運動には様々な源流・支流が注ぎ込んでいる。アンナ・ブラムウェルはヒットラーの第三帝国もエコロジー思想の歴史の中に位置づけて分析を加えている。
わたしは学生のときワンダーフォーゲル部に入っていた。だから、ワンダーフォーゲル運動がドイツの青年運動として自然発生的に生まれて、それがやがてヒットラー・ユーゲントに吸収されていった歴史を知っている。ドイツの森や川、湖。自然を愛して豊かな国土を渡り歩く。それがワンダーフォーゲル=渡り鳥だった。その美しい心は、ヒットラーのドイツ国家社会主義にすっぽりはまるほどに親和性があったということだ。自然とナチス。
監訳者の金子務氏が後書きでまとめているので引用する。
「ドイツやイギリスでエコロジズムが支持を得る背景として、教育ある中産階級と自由主義プロテスタント文化があり、田園的過去のロマン主義的喪失感がある。」
乱暴に言ってしまうと、エコロジーには「昔は良かったね」というあまり根拠のない郷愁が必ずつきまとっているということだろう。それはぼんやりとした感情だ。目の前の現実から逃げてしまいたいという欲求も隠れているかも知れない。日本で言えば、たとえば江戸ブームというのがあって、鎖国のもとで江戸時代は素晴らしいエコ社会が実現されていたという話がある。江戸はエコロジー都市だった、と。まあその真偽は別として、食糧の危機つまり飢饉や疫病による地方の「人口調整」や「間引き」という名の嬰児殺しもエコロジーの一部だった、とは言えるだろう。
脱線の補足だが、江戸の循環システムつまり下肥の田畑投入リサイクルは江戸のエコロジーを象徴していただろう。ヨーロッパの中世都市が糞尿まみれで衛生状態が非常に悪かったと言われるのと対照的。しかし、そういうとエコロジーが立派な話に聞こえるが、それは都市住民側からの見方だ。百姓は人の糞尿をほとんど人力で処理していたわけで、昭和の40年代始め頃までは糞尿を町人からカネを出して買ってそれを大八車や運河を利用して運んでいた。わたしも下肥を天秤棒で担いで畑にまいたことがあるが、あれは息が止まるくらい臭く、お勧めできる仕事ではない。
それと日本のばあい、中高年の登山者が圧倒的に多いというおかしな現象にみられるように、いまの50歳代から60歳代という世代はとくべつ自然指向が強いといえるだろう。この戦後生まれで高度経済成長期に育った世代は、身の回りの大きな変化を肌身で実感してきた世代だった。つまり子供のころのモノはないが自然にあふれた世界を懐かしく思い出す世代なのだ。大人になっての都市型消費生活。ドイツやイギリスが18世紀から20世紀にかけて体験してきた産業革命、近代化と「自然と農村の喪失」を、日本は第二次世界大戦後の半世紀で急速に実現した。
自然礼賛は都市化と裏表の関係にある。都市化が進めば進むほどに自然礼賛の欲求は強まる。けれども、ほとんどの人がほんとうの自然愛好家ならば東京やニューヨークは存在しなかった。人は自然に反することが好きなのだ。楽しみと刺激に満ちた都市型の大量消費が好きなのだ。だから、少数の自然礼賛派が都市礼賛派を支配することはできない。もし、自然礼賛派がそれを政治的に実行しようとするなら、ナチスの第三帝国、毛沢東の文化大革命やポルポト政権のカンボジアと同じことが起きるだろう。はじめは高邁な倫理とか理念とかをかかげて出発して、やがて悲惨な虐殺の主役になった人々の歴史を、忘れてはならない。
「脱原発」には、妙な倫理感がかならず伴っている。ある種の禁欲主義のにおいもする。第2章の終わりのほうで「技術で人間の欲望を抑えることはできない」と書いた。では、倫理でならばエネルギー消費をコントロールすることができるのか。繰り返しになるが、国家が「倫理」を強制するようになったとき、ふつうの市民が隣人の「倫理」を監視するようになったとき、その社会にはかならず不幸が訪れることだろう。