この章は、第14章〜第16章「エコロジー」や第13章「薪で焚いた風呂で考える再生可能エネルギー」の補足として書いてあります。第17章「転落する風の王国・デンマーク」も併せてお読みください。
田舎暮らし礼賛と「里山資本主義」
一昨年からずっと話題になってきた『里山資本主義』(藻谷浩介・NHK広島取材班・著)には、原子力発電を国民投票で取りやめたオーストリアの話が出てくる。で、この章では、オーストリアが日本の選ぶべきモデルにならないことを見てみよう。これは基本的にデンマークと同じ理由によっている。
以下のグラフのとおり、オーストリアは水力発電の国だ(図1)。電力の7割を水力でまかなっている。木質バイオマスによる発電もあるが量は5%程度しかない。一方でエネルギー用木材チップの国内生産量は非常に多い(図2)。国産エネルギーの半分は木材だ。これは、木質バイオマスのほとんどが発電に用いられるよりも直接の熱源としての燃料に使われているということだ。一次エネルギーの消費構成を見ればそのことがはっきり出ている(図3)。
(以下のグラフはクリックで拡大表示。図4以下のグラフはIEAのデータを元に筆者が作成。)
木質バイオマスは、発電に使うよりも直接の熱利用に使った方が合理的、経済的ということをたぶん意味しているのだろう。つまり、発電には不向きということだ。ボイラーやストーブで薪またはペレットとして燃やす。これがいちばん熱効率のうえで無駄が少なく経済的な利用方法ということになる。『里山資本主義』で挙げられているバイオマス利用の実例は木材チップ発電だが、電気に変換する方法はエネルギーの無駄遣いと言っていいだろう。しかも採算面で言えば、再生可能エネルギー固定価格買い取り制度(FIT)という事実上の補助金に助けてもらってやっと生きられる程度だ。
木質バイオマスでのエネルギー供給については、以下の論説にくわしい。木材がエネルギーの面で経済的にどれだけの働きができるか。その「量」の問題を見ていけば、『里山資本主義』で書かれている主張があまりにも現実性のない夢物語だと分かるだろう。藻谷氏の主張には肯ける部分があるが、NHK広島の書いている大半の部分は、どこにでもある田舎暮らしの礼賛にすぎず、ほとんど個人の趣味程度のレベルということが明らかになるだろう。
参考:久保田宏 『誤解を招く里山生活でのエネルギーの自給』
(藻谷浩介、NHK 広島取材班 著『里山資本主義―日本経済は「安心の原理」で動く』)
電力輸出入が異常に増大する
木質バイオマスの話は以上で総括できるとして、オーストリアの電力事情をもうすこし見てみる。
オーストリアの電力は水力発電が主体だ。この水力発電は、夏場に出力が最大になり、冬場はおよそ半分に落ちることがわかる。このために、火力発電でこの分を相殺しなければならないので、図4のグラフのように水力と火力の山谷が逆向きになる。 言いかえれば、水力にはそれをバックアップするために相当量の火力発電が不可欠ということだ。
図5のグラフから分かるのは、電力の輸入が15年ほどのあいだに2倍に増えてきたことだ。国内の総発電量は頭打ちになっている。輸出があまり増えていないのと比べてみても、オーストリアの電力はあきらかに海外依存を徐々に強めてきている。
これは風力発電の国、デンマークで起きていることと同じだ。図6のとおり、国産電力が減っていき、輸入電力が増えていく。要するに、水力や風力のように季節や天候に依存するエネルギー源を大量に抱えこむと、電力の輸入がだんだん増えていく。デンマークでもオーストリアでも15年で2倍に増えた。
しかも、それ以上に問題をはらんでいるのが次の点だ。輸入輸出の電力量の規模はその国の消費電力の規模に比べると、3〜5割という大きさに達するようになる。オーストリアでもデンマークでも、国内で消費する総電力の3分の1から2分の1にも相当する大量の電力が国境を出入りする。海に囲まれた日本のばあい、もちろんこれは不可能。対馬海峡や宗谷海峡を越えて韓国やロシアと送電網をつながないかぎり、まったく考えられない話だ。
デンマークのグラフを見ると、風力の弱まる夏場に電力輸入が急増するのが分かる。そして、電力の供給量=需要(濃い青線)の上下変動をはるかに上回って国産発電量(水色線)が大きく上下している。需要の動きにまったく関係なく発電量のぶれがひどい。風力に依存した結果がこれだ。
国内の電力を安定供給し、同時になるべく低価格を維持しようとすれば、オーストリアもデンマークも国外との電力輸出入を増大させなければならなくなる。なぜなら、風力や太陽といった再生可能エネルギーは不安定でコストも高いからだ。水力は不安定とまでは言えないが、発電量には地理的、地形的、気候的に限度というものがある。国内だけで安定供給を維持しようとすれば、コストが高まる。コストを下げようとすれば輸出入が増える。そういう関係にある。低コストと安定供給を両立するには、輸出入量を増やす必要があるのだ。
再生可能エネルギーを増やしたばあい電力の安定供給と低コストをはかるには
1) 国外・域外と電力の出し入れ可能なばあいは、大量の出し入れをする必要がある。
2) 国外・域外と電力の出し入れ不可能なばあいは、安定供給と低コストのどちらかまたは両方を犠牲にする覚悟が必要。
この関係は、別の章にも書いたが、国単位だけでなく、県単位、都市単位、地域単位でも同じことが成り立つ。『里山資本主義』でも持ち上げられているスマートシティもその例外ではない。里山地域にエネルギー自立、域内完結があり得ないように、スマートシティにもそれはない。自立完結性のないスマートシティがいくらいっぱい寄り集まってもその集合体が自立することは不可能だ。域内で資源エネルギーの有効利用ができるとしても、それは資源エネルギーの自立完結とは別問題だ。むしろ、その地域の外側につねに何らかの依存する関係を必要とする。逆に、外部依存を拒んで里山地域やスマートシティの内部だけで完結性を高めようとすればするほど、高コストを招くことになる。これはデンマークなどの話とまったく同じ構造で、高コストを避けようとすれば結局、外部から資源エネルギーを持ち込んで来ざるを得なくなるのだ。
ドイツがデンマークになるとどうなるか
上のグラフで4つの国の電源構成を並べてみた。デンマーク、オーストリアに比べれば、ドイツの電力事情はまだ日本に近い。脱原発を明確にしたドイツがいまだに原発に頼っているのはご愛敬ではあるが。それに、日本の異様な天然ガスシフト=原発代替がきわだっている。しかも他の国が石油火力をほとんど止めてしまったのに比べて、日本だけが大量に燃やしている。これも原発を停止しているため、老朽火力発電所をふくめて化石燃料を使わざるを得なくなった結果だ。
福島の事故直後にメルケル政権が打ち上げたドイツの脱原発政策は、上のグラフの状態(左から2番目の柱)から原子力(赤紫色)が消えていって、その部分が風力と太陽に置きかわるというものだ。それはその右となりのデンマークのグラフに近いものになるということを意味している。デンマークの現状とかかえている問題については前の章に書いた。脱原発政策をそのまま実行していったとき、ドイツの将来もデンマークの状況に近づいていくということだ。
たんにデンマーク型に変わるだけでなく、重要なのは規模だ。日本、ドイツ、デンマーク、オーストリアの年間発電量(2012年実績)は下グラフのように経済規模、人口を反映して大きな差がある。現在のドイツでさえ風力と太陽光発電の合計はオーストリア1国の総発電規模に相当する大きさだ。原子力発電量はオーストリアとデンマークを合計した総発電量に匹敵する。ドイツがデンマーク型に近づいていく、つまり原子力がそのまますべて再生可能エネルギーに入れ替わっていくと、その量的な影響は小国デンマークの比ではない。風が吹けば飛んでしまいそうな周辺国を巻き込むことになる。近隣小国はドイツのエネルギー支配圏、暴風圏に入ることになるだろう。
バックアップ電源の重荷
現在のドイツは、石炭火力を自前(国産炭)で稼働できる。そのうえ、なんやかんや言っても原子力もフル稼働中だ。風力や太陽光も増やした。したがって電力が輸出できるほどの余力を持っている(図9)。むしろ過剰設備をかかえた。輸出する余裕がある、と言うよりも、輸出しないと国内の需給バランスが取れない。これは輸入を増やしているデンマーク等とは逆方向だが、国内の電力需給を国際取引で調整する傾向が強まっている点では共通している。設備総量は表面を見ただけだと過剰だが、その一部は不安定な再生可能エネルギーのバックアップ電源として必要だ。したがって、温室効果ガス削減の意味から石炭火力発電所を増やすわけにはいかないが、かといって減らすこともできない。むしろ再生可能エネルギーを増やせば増やすほどバックアップ電源の必要量は大きくなる。バックアップの位置づけなので設備の稼働率はとうぜん落ちる。このバックアップのための火力発電設備を維持していくためのコストが大きくなる。コストを抑えるには、石炭火力の稼働率を上げて輸出をいっそう増やす必要が出てくる。
電力需給上のバックアップを国内だけで維持しようとすればコスト高におちいる。需給バランスを輸出入で調整しようとすれば、小規模な近隣国の電力需給バランスに耐えきれないほどの大きな負荷をかけることになる。その輸出量は今やオーストリアの総電力消費量に匹敵し、デンマークの総電力消費量の2倍以上という大きさだ。しかもそれは今後も年々増大していく。これが、ドイツが現在かかえこんでいる大きな問題であり、今後、脱原発が進めば進むほどさらにふくらんでいく構造的で致命的な問題なのだ。近隣との摩擦はどんどん深刻化するだろう。
デンマークの隣にもう一つのデンマークを作ることはできない。デンマークとちがうシステムを持って、デンマークと補完的に機能する電力システムを持った国だけが存在できる。オーストリアの隣にもう一つのオーストリアを作ることはできない。この理解を抜きに再生可能エネルギーを礼賛しても無意味である。ドイツはデンマークになることはできない。5年先10年先の原発ゼロ・ドイツがどんな国になるかが見物ではある。
もう一度、里山資本主義とスマートシティの話に戻せば、そのどちらについても、それが他のシステムのバックアップになるというのは過大宣伝だ。それとはまったく逆に、里山の経済を維持するにはその外からのバックアップが不可欠であり、スマートシティを機能させるのにも外からのバックアップが必要だ。ここでいうバックアップとは外部エネルギー、外部資源の注入であり、さまざまな補助金をふくむ外部資金の注入だ。あるいはFITに代表されるような再生可能エネルギーへの補助金だ。日本全国が里山資本主義になることはできないし、日本全国がスマートシティになることもできない。スマートシティの隣にスマートシティを作ることはできないのは、デンマークの隣にデンマークがないのとまったく同じである。
これは経済一般に共通する原理、法則みたいなものと言っていいのではないか。アメリカはメキシコからの大量の不法移民を黙認して安い使い捨て労働力に使ってきた。ヨーロッパもアラブ世界からの移民を労働力として受け入れてきた。一国のなかの経済をうまく回転させるのに外部からの安い労働力を利用する。それは自由主義市場経済の自然な流れだった。日本の派遣社員・正社員問題もそう。一国だけで鎖国的にすべてを自立完結させようとすると経済が成り立たない。それは人だけでなくモノについてもサービスについても言える。その意味で、国産にこだわったり外国人労働者の受け入れに壁を作ったりする国は、それ相応の高コストを覚悟する必要がある。需給の不安定を我慢する必要がある。「地産地消」をもてはやす者はその高コストの代償をじぶん自身で払うことになるだろう。
陳腐な農本主義? 空想的社会主義?
木材を有効に利用する、地域の資源を有効活用する。都市のエネルギー使用を合理的にして省エネを図る。太陽や風力を利用する。そのこと自体はすばらしいことだ。ただ、それらのものが何か世の中の問題を一気に解決して、いまの時代に取って代わる新しい世界を作ってくれる、かのように宣伝するのはちょっと止めてよ、と思う。
この『脱原発神話』でも書いてきた。第13章「薪で焚いた風呂につかって考える再生可能エネルギー」、14章〜16章「エコロジー」。
過去、人間はちょっと精神的に疲れたとき何度となくユートピアを夢見てきた。1980年代のフジテレビ・大ヒットドラマ『北の国から』を思い出してみよう。あのときは、高度経済成長がオイルショックなどで行き詰まった時代背景があった。里山資本主義には農本主義のにおいがする。陳腐なトルストイ主義のにおいがする。空想的なプルードン主義のにおいがする。東日本大震災で物理的、精神的、経済的なショックを受けた日本人としては、そういう素朴で牧歌的な世界を思い描くのはやむを得ないところもあるだろう。けれども、こういう時代だからこそ「根拠なき夢想」に走ってはいけない。空想を現実と混同すれば、未来は暗転するだろう。