脱原発神話 第9章 ユートピア / 科学から空想へ(4) ・・・ゼロリスク探求症候群 [2012/7/17]

ゼロ・リスクのユートピアについて少し書こう。

汚れと穢れ、手を洗うのが止められなくなった国

もう、これは、ハッキリ言って精神病の一種と見たほうがいいのではないだろうか。わたしは精神科医じゃないから無責任だけど、精神科の閉鎖病棟を出入りした経験はある(笑)。閉鎖病棟というのは入院患者に病棟外へ出る自由はない。ことばはきついが患者はその一区画に監禁状態にある。あそこ、つまり異界としての閉鎖病棟と健常なはずの開放された日常社会。そのあいだを行き来してみると、人間の「差別意識」というものを深く考えさせられる。ふたつの世界にある境目、不連続な境界を通り抜けるたびに、自分の心のなかにある差別意識があぶりだされてくる。ものごとも人も全部を相対化してしまう。絶対に正しいこと、絶対に健康なこと、などありえない。完全に正常な人などこの世にはいない。絶対に汚れていない人間など存在しない。その境目なんかそもそもあり得ない。そういうことを考えさせられる。一度入ってみるのも人生を豊かにすると思うので、おすすめする。

出だしから脱線したが、話をもどす。自分でもちょっとおかしいと気づいているが、それでも自分自身の行為を止めることができなくなった。分かっちゃいるけどやめられない。そういうある意味恐ろしい状態に入りこんでしまったのが、昨今のこの日本という社会なのだろう。このやめられない病気はブレーキを持たない車が坂道に来たようなもので、一度動き出したが最後、どんどん加速していってしまう。瞬間的なヒステリーならまだ救いがある。平常心に戻れる可能性がある。が、この今の日本社会は日常がもうちょっとおかしな状態。異常が日常化した状態なので、どんな事柄を見てもどこかしら狂った色合いに染まってしまっている。ちょっと狂ったままでどこまでも走っていく。ネジが脱落したままで走っていく。思えば、日本の歴史にはそういう事例があったね。アタマの上から原爆が落ちてくるまで目が覚めないでひたすら泥沼に突っ込んでいくというやつ。自分で自分を止められなくなる。自爆するまで止まらない。

去年、自民党の石原伸晃幹事長がきょくたんな反原発、原発不要論の高まりにたいして「ヒステリー」ということばを使った。そのために強い批判を浴びた。つまり、今の日本で「反原発は病気(ヒステリー)だ」と言うことは完全にタブーになっているわけだ。反原発は今の日本では「正常な精神状態」であって「健康な判断」であって、それをおとしめるようなことは許されない。

この逆のことが最近あった。香山リカ先生の暴言騒動だ。以下は評論家の荻上チキさんのツイート。7月16日に東京日比谷公園で開催された「さようなら原発10万人集会」について。

香山リカ氏の壇上アピール。「原発維持や推進をしようとする人は、私、精神科医として見れば心のビョーキに罹ってるヒトたち」「残念ながらもうカンタンには治りそうにない」「その人達の目を覚ます方法はただひとつ、私達が声をあげ続けること」。 URL http://live.nicovideo.jp/watch/lv100058457#3:35:30

ここで、「原発必要論者は精神病患者ですよ」という精神科医の診断が下された。なんと! 言葉もないが、こういう発言をする先生は医師免許を剥奪するべきだろう。自分と異なる意見の人を「病気」だなどと、医者を自称する先生が言っていいことにあらず。医師としての倫理もへったくれも欠落した人物に資格を与えておくのは間違いだ。

もっとも、香山氏は思わず口を滑らしたのだろう。そういう威勢のいいことを言ってしまった背景には、いま日本全体が、原子力の推進者や必要論者は非国民であるかのような空気に包まれてしまっていることがある。その空気が香山氏の背中を押して、あの言葉を吐かせたのだろう。空気は香山氏の耳元でこうささやいていた。原子力の推進論者なんて叩いてもかまわないよ。あいつらは反社会的な異常な人たちなのだから、と。いまどき原発が必要だなんてキモイよね、と。そういう、この世の中に漂う、多くの人たちが深く考えることなしに心に持っている感情に香山先生は迎合した。医学的根拠のない人格攻撃を許す世の中の空気、それはつまるところ「差別」と「偏見」そのものだった。

いまこの国では、電力会社は「反社会的存在」の烙印を押されている。経済産業省の総合資源エネルギー調査会基本問題委員会はそのメンバーにひとりの電力関係者も入っていない(山地憲治さんは元が電力中央研究所の出身だから完全に非電力関係者とはいえないが、いまの電気事業者を代表しているわけではない)。菅直人首相が脱原発宣言を勝手にしてしまって以来、電気事業の実施当事者をすべて排除して日本のエネルギー基本政策が議論されてきた。そして、その結果まとめられたエネルギー計画のシナリオに関する一般国民からの意見聴取会で、電力会社の社員が発言することを政府は禁じてしまった(7月17日)。職業を偽って発言したのならともかく、堂々と自分は電力社員とことわって自分の意見を述べようとし、それを脱原発派は会場で妨害した。特定の業種で働く人間をその職業故に口封じする。恐ろしい空気だ。香山氏が「心のビョーキ」と呼んだ診断は原発必要派に対してではなく、じつはこの、脱原発派とマスメディア、それに迎合する民主党政権のほうにこそふさわしい。

精神的に病んでいる人、とくに被害妄想や誇大妄想、パラノイア状態にある人に向かって「あなたの言っていることはおかしいよ」と言うと、ほぼ必ず「あんたの方がおかしい」という激しい反発が返ってくるものだ。これは話し合って解消するような対立ではなく、理詰めで説得して分かってもらえる状況ではなく、議論すればするほど病んでいる者は「あんたの方が狂っている」という、根拠も論理もすっ飛ばした暗黒の底なし沼におちこんでいく。脱原発はいまそういう、合理的な議論を拒絶した泥沼の中に入りこみつつある。わたしはそう受け取っている。かれらの頭の中はすべてかゼロしかなくなっている。これをパラノイアと呼ぶ。

参考:『さようなら原発10万人集会(2012年7月16日)』呼びかけ人発言録
http://sayonara-nukes.org/2012/07/120716hatugen/

彼らの聖典には始めにこう書いてあるだろう。

反原発ハ神聖ニシテ犯スヘカラス

なぜ日本人は「汚染」に神経をとがらせるようになったのか?

さて、放射能への不安にとりつかれた人を見るのに、たしかにヒステリーという用語は適切ではなかっただろう。わたしは、ヒステリーではなくて「強迫神経症」という用語を使うほうがより実態に合っていると思う。

強迫神経症:(『精神神経科必携』保崎秀夫・牧田清志・共著より)

強迫症状の主なものは、強迫観念と強迫行為である。前者は一定の観念が、気分や意志に無関係に繰りかえして脳裡に浮かび、”くだらない”、”不合理だ”と思いつつも、これを阻止せんと努めれば努めるほど、いたずらに苦悶を増やすような考えであり、後者は、なんら目的に関係のない一定の行為が、衝動的にしばしば繰りかえして行われ、その際、その行為をやってしまわないと不安でしかたがないので、その無意味を知りつつも実行するものをいう。

強迫観念が特定の対象や状況に集結したものが”恐怖症”である。不潔恐怖の患者は、何度も何度も手を洗ったり、扉の引き手や電車のつり革にも直接ふれることができない。

原発事故発生から1年。この何とも言えない違和感がずっと低く暗く立ちこめている。なんで現代の日本人の多くはこんなに「汚染」に神経をとがらせるようになったのか?。かならずしもこの「病状」におちいっているのがこの国の多数派だとは思えないが、ごく少数の特殊な人たちだとも思えない。かなりの数の一般国民が不潔恐怖、清潔恐怖にとりつかれている。

それはたぶん、その人たちが自分は清潔な存在だと思いこんでいるからだろう。真っ白な人間だと信じているからだろう。わたしにはちょっと理解できないが、多くの人が自分のことを汚れた生き物とは思っていないということだ。自分が少しは汚い人間だという意識があるならば、外からやってくるわずかな汚れぐらいでこの世の終わりみたいな大騒ぎはしない。そして、それが常識的な人間だろう。と、少なくともわたしは以前はそう思っていた。それが現実にはどうもそうではないらしいと感じ始めたのは、この10年くらいのことだ。

前の章で、東北の豊かで無垢の自然・大地が汚された、という虚構について書いたが、ここではもうひとつの「汚れ」「穢れ」についてちょっと書いておく。これは、以前、わたしが豚インフルエンザや小沢一郎事件のときに書いたこととも共通している。

それはこういうことだ。東北がけがれない無垢な自然と田園地帯というフィクションとしてあったのとまったく同じように、日本人の多くはこう信じているらしい。平和国家で、安心安全で、文明的で、きれいな社会に暮らす自分は善良でけがれない無垢の存在だと。そう思っているらしい。そういう虚構のなかに生きているらしい。それが自己中心のフィクションにすぎないことをまるで自覚もせず、あたかも良家のお嬢様、お坊ちゃまのようにしてこの国に暮らしているらしい。その虚構とは、世の中は完全に滅菌消毒されているのが当たり前で、異物、不潔なもの、病的なものはありえない、あってはならない、あれば徹底的に排除追放すべきだ、という現代社会のフィクション。そういう心理的感覚の中で生きているらしい。

いつのころからか「抗菌グッズ」なる、抗菌を売り物にする商品が出回るようになった。食品工場は、レベルで区分けされ、バイオハザード防止の生命科学研究所を裏返しにしたような仕組みになった。つまり、バイオハザード防止のため研究所は内部の細菌をいっさい外に漏れ出させないシステムになっている。その逆のかたちで、食品工場は外部の病原菌をいっさい内部に侵入させない仕組みを求められるようになった。この、「汚れ」の徹底排除という思想が日本の社会を覆いつくすようになった。おむすびはビニル手袋をはめて握らねばならなくなった。

「汚れ」を排除するのはいい。問題は、それがほんとうに「汚れ」なのか、だ。絶対に排除しなければならないほどの危険なものなのかだ。わたしには度が過ぎていると思えてしかたがない。

「ゼロリスク探求症候群」

所沢のダイオキシン騒動、肉牛のBSE騒動、鳥インフルエンザ騒動、新型インフルエンザ騒動、牛レバー規制にいたるまで。

今から10年前のこと。『現代農業』(農文協)という月刊誌2002年3月号にこんな文章が載っていた。いわゆる狂牛病騒ぎで牛肉や牛乳消費が激減して価格も暴落、畜産農家に打撃を与えていたころだ。

「ゼロリスク探求症候群」の蔓延 ----BSE騒動に思う

2001年9月のBSE第一例の報道以来、日本では、行政当局の不手際が次々に明らかになった。だがそれでも、各種対策が英国並み、あるいはそれ以上となったことは正当に評価されねばならない。現在の日本では、食品を含めて、牛由来の製品の安全性は、欧州諸国以上に確保されている。にもかかわらず、汚染の心配のない牛乳や牛肉を避けるという一般消費者の行動は、科学的データを無視している。

直接・間接喫煙により年間9万5000人もの日本人を殺しているタバコが社会で受容される一方で、まだ死者の出ていない異型ヤコブ病がパニックの対象になる。危険度を評価するリスクバランス感覚が狂っているとしか言いようがない。そして、現実には得られない「ゼロリスク」をひたすら求め、社会的問題を無視してしまう。私はこれを「ゼロリスク探求症候群」と呼んでいる。

ゼロリスク探求症候群の特徴は次の通りである。

上のように指摘したのは、内科専門医の池田正行氏だった。なんと鋭い分析だろう。今回、原発事故では、この症候群のメカニズムが最大級のスケールで現実化した。リスクはゼロでないと許さない、そういう「無垢な一般市民」が目の前にわんさか現れた。攻撃対象として行政とならんで東京電力が血祭りに上げられたかっこうになった。日本の電力会社は公共性をつよく求められる特殊な民間企業だ。公的組織として、お客である一般市民に反撃することは考えられない。

無垢な市民 VS 汚い加害者・東京電力、という単純化された構図が日本の社会をおおいつくしてしまったこの一年だった。東京電力の勝俣恒久会長は2012年6月末の会長退任を前に、日本経済新聞のインタビューで以下のように答えている。

(日経記者)東電は当初、3条ただし書きの免責条項を主張していましたが、徐々に触れなくなった印象があります。

「いや、何かあったわけじゃないけれど。弁護士さんたちも、基本的に3条ただし書きでやって(法的に)勝つ可能性はあると話していました。ただ、その裁判の相手が、国じゃなくて被災者になってしまう。例えば10万人の被災者の方がいたとして、何らかの格好で賠償を求めてくるのも裁判で扱って、そのときに『3条ただし書きだから我々は無罪。免責だよ』と主張して裁判をするとしましょう。そうすると、決着するには数年、どうやったって数年かかりますよね。要するに、被害を与えておいて、避難所にいる被災者の方相手に裁判して『我々は無罪だ』と主張することができるのか、と考えました」

「そういうことを続けてったら、社会的糾弾も激しいでしょ。銀行もカネ貸してくれなくなるかもしれない。だから、つぶれちゃうって可能性だって充分あるわけです」


注:この3条ただし書きについては、脱原発神話第4章〜福島はなぜ人災に仕立て上げられたのか〜「吹っ飛んだ原子力損害賠償法」を参考にしてください。

無垢な市民、マイノリティ憑依

池田氏が指摘したこの無垢な一般市民。20世紀末からにわかに浮上してきた無垢な一般市民。それとともに、「市民目線」とか「市民感覚」が何より優先されるような空気が強まっていく。民主主義がその根拠だ。何でもかんでも、どんな分野にも「市民」が口を出すことになる。そしてそれが正しい姿だと。あるいは別の言い方をすると、「生産者中心から消費者中心の社会へ」、というキャッチフレーズにもこの無垢な一般市民の勢力拡大がうつしだされていた。しかし、その「市民」とはいったい何者なのか。「市民」は神様になったのか。

佐々木俊尚氏は『「当事者」の時代』(2012年3月刊)でこう書いている。

<庶民>は正義や国家を論じないマジョリティ。
<市民>は正義や国家を論じるマイノリティ。
マスメディアが<庶民>を代弁する。
<市民>がマスメディアを代弁する。
これは実にねじくれ、ややこしい構造だ。

佐々木氏は、市民運動や学生運動といったある目的の下に組織された運動ないしは何かの政治性をもつ運動の歴史をふり返りながら、それを報道してきたマスメディア記者の立ち位置に厳しい批判をくわえている。マイノリティ(少数者)に「憑依」することで自分たちの正当性を守りつづけてきた報道メディアへの批判。一方、池田氏の言う無垢の市民はもっと漠然とした、ひとり一人の感覚、個々の消費者意識に重点を置いて見ている。池田氏は無垢の市民そのものへの批判、佐々木氏は無垢の市民に憑依するマスメディアへの批判。そういう違いがあると言っていいだろう。

ただし、3月11日以降の(広い意味での)脱原発派はマイノリティを意識しているのではなく、逆にみずから多数派市民を意識している。国民はみんな原発を要らないと言っているし、3.11以後の日本で脱原発は当たり前なのだと。そうでない人は日本国民ではないと。脱原発は疑いようのない、唯一無二の絶対神なのだと。

さて、BSEに先立つ同じ構造の大騒ぎが環境ホルモンだった。 『環境ホルモン空騒ぎ』(中西準子 新潮45、1998年12月号) http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/45draft.html

こうした食べ物にまつわる騒ぎも何とか収まった2009年になると、新型インフルエンザ、いわゆる豚インフルエンザ騒動、パンデミックのパニックが日本国内を吹き荒れることになる。世界中で日本だけが突出した反応を示した。あたかも死者が続々出ているかのように。

白色マスクをする人々

わたしは、新型インフルエンザの登場の前後から一気に世間に広まった「マスクをする人々」について以前、書いたことがある。

去年(2009年)の豚インフルエンザ大騒動のときのことだ。たまたまその時期、5月に東京を経て大阪へ行く用事があった。そのころの関西地方は神戸を中心に患者がぞろぞろ発生し始めていて、騒ぎは止まらない状態になっていた。大阪のJRや地下鉄駅を行く人々はマスクをする人が目立っていた。そこで気づいたのは、マスクをしているのはほとんどが20代30代の男女だという不思議な事実だった。中高年でマスクをかけて歩いている人は余り見あたらなかった。

この変な、都会の雑踏の光景を今思い出している。この世代はなぜマスクをするのか。

あの白色マスクの持っている暗喩、メタファー、それは清潔、無垢、自己防衛、保守、排他、匿名だ。わたしはそう考えている。マスクをする理由はたんに病気がうつらないようにするという実用的手段としてだけではない。もっと違う隠れた心理がそこに大きく働いていると思う。

悪や穢れは外からやってくる。わたしは健康で清らかな身体と正しく潔白な心を持っている。汚そうとする者は許さない。・・・白色マスクはそう言っている。

ちょっと思い出して欲しい。昔は風邪などをひいた病人がマスクをするのが普通だった。健康な人はそもそもそんな煩わしいもので口や鼻をふさごうと思わなかった。小さなことだから気がつかないだろうが、これは案外重要なことだ。日本人の重要な意識の大逆転だと思う。今は健康な人がマスクをする。まさに、白色マスクは21世紀にくらす日本人の心の奥を映し出している。

2007年の不二家事件。不二家が消費期限の過ぎた牛乳を使ってお菓子を作った。それで社長が責任をとって辞任するという事件もあった。政治家の失言の揚げ足取り、それがそのまま辞任要求へ。マスメディアがあおりたてる世論もまた、日本社会の病状の一つでもあった。これも今世紀になってから、とくに小泉政権が終わったあと、内閣恒例の政治的ショーになった感がある。退屈しのぎの見せ物。事の本質的なことはそっちのけで重箱の隅をつつくことが重大事になってしまった。これも政治家は一点の曇りもない清らかなな人物でなければならない、そうでない人間は表舞台から引きずり下ろすべきである。そういう清潔恐怖症の蔓延をあらわしていた。

「市民感覚」をかかげる検察審査会の登場。暴走し始めたその権力。裁判員裁判制度はまだ職業裁判官の補助的なものにとどまっているが、一方の検察審査会の権限強化は検察庁の不起訴判断をひっくり返して、特定の誰かを容疑者として法廷に引きずり出すほどの力を持ってしまった。「市民感覚」が恐るべき市民権力になった。

たぶん小沢一郎問題もこの文脈で解釈することができるだろう。政策の中身よりも政治の手法を問題視する。この「豪腕」小沢流の政治手法、「金権政治」という、分かったような分からないようなキーワードで一人の政治家を追いつめる。何か人相が悪いというだけの理由でも人を裁判にかけることができてしまいそうな、それが「市民感覚」だったりする恐ろしさ、おぞましさ。これが21世紀の民主主義国家なのだから。

社会の精神衰弱

こういう世の精神状態のなかで、2011年3月11日が訪れた。異様に巨大な津波は原発のコントロールを奪い去った。そして、それ以上に制御不可能とも思えるゼロ・リスク探求症候群の大津波が日本全土を一気におおってしまったのだ。手がつけられないパニックが始まった。

すべてが「ゼロ」を求めて叫ぶ、無垢の市民の大合唱のなかで揺れつづけることになった。

震災瓦礫の受け入れ拒否や、京都のたいまつ反対、その他。こちらの方はいわば消極的反原発だっただろう。積極的な意志として脱原発を求めるのではなく、汚いものが嫌いという単純な反応の仕方。たとえばそれはゴミ焼却工場とか刑務所、精神病院とかが近くに建設されるのはいやというような反応の仕方と同じレベルのものだ。原子力の必要不要はどうでもよく、たんに自分に害が及ぶか及ばないかが唯一の判断基準だった。それは利己的な反原発。

そして関東地方のあちこちでくり広げられた、「市民」による放射線量測定。それはまるで屋根裏部屋に潜むユダヤ人を捜し出すゲシュタポさながらに、ガイガーカウンターや線量計を持った人たちが汚染を探し求めて徘徊することになった。わたしは幸運にもそういう異様な人たちを目撃しないで済んだ。まあ、側溝や枯れ落ち葉のなかに一日中くらしているドブネズミ、ゴミムシ、ダンゴムシ、ミミズ・・・。それと同じ暮らしをしている人にとっては、雨水とともに集積したセシウムが自分たちの安心を脅かしたことだろう。そんなドブネズミたちのおかげで、環境省にとっては除染の範囲を広げることだけが正義になった。猫も杓子も「除染!、除染!」。1ミリシーベルトまで下げないとダメだ、と。

厚生労働省にとっては、食品のセシウム基準を下げることだけが正義になった。キログラム当たり500ベクレルという暫定基準。これさえ、国際的に見れば過度な規制基準値だったが、それをさらに100ベクレルまで下げてしまう。アメリカや EU の基準値が1000〜1250ベクレルというから、日本のゼロ・リスク探求病がいかに異様なものか分かるだろう。科学的、疫学的なリスク判断よりも国民の「不安」という取り留めのない力に押し流される道を選んだ。科学的根拠よりもあるようなないような世論が優先された。まったく、「無垢の市民」によって一度作り上げられてしまった世の中の「空気」とは恐ろしいものだ。不安というあいまいな感情が最優先されてものごとが決められていく世界の恐ろしさ。

参考:松永和紀さんの FOOCOM.NET から
・放射性物質の新規制値、下げればいいのか?
・放射性物質 新基準値案はどう設定された?
・新基準は容認できない! 放射線審議会は「コープふくしま」の声をどう聞いたか
・消費者の安心のための新基準値でよいのか?
・縦割り行政と硬直化した法体系浮き彫り 放射線審議会・答申案
・「原子力ムラの圧力」ではない。放射線審議会の答申の意味
・「安心」を錦の御旗に、厚労省審議会は新基準値を決めた

わたしはエネルギー問題としての原子力、放射能の問題としての原子力以上に、日本という社会の精神衰弱のほうが深刻だと思っている。原子力に限らない。この国でおきる大きな社会問題のほとんどが、この神経病的な安心安全、不潔恐怖、ゼロ・リスク指向の大きな流れのなかにあると思う。流れに流されるままにあると思う。ひと言で言えばパラノイア。それを、日本が成熟社会になった証拠だ、と達観するのもいい。文明の発達した世の中がより高い安全性を求めるようになるのは仕方ない、と納得してしまうのもいい。けれども、このゼロ・リスクのユートピア社会はどこまでいくのか。それは明るい進歩と言えるものなのか。



 

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