下請け労働者に被曝を押しつけるのはけしからん、という言説については、もう第10章の「死刑台のエレベーター」でも書いたし、差別については第5章「科学者の社会的責任、文学者の社会的責任」でも、第X章「わたし自身の立ち位置」でも書いたから繰り返しになるが、
こんなふうな、脱原発を信じる純真な青少年がけっこういるようなので、気になってもう一度書くことにした。この人は16歳の高校生らしい。ちなみにリツイートした吉田照美氏はフリーのアナウンサー。上杉隆氏と仲良し。
この少年が引用している小出裕章氏の意識こそ差別的だよ。小出氏は京都大学原子炉実験所助教。この国立大学の先生は、下請けの労働者はつまらない労働者だと意識の底で思っているのだろう。親会社、元請け会社の社員よりレベルが低い仕事を「させられている」と思いこんでいるのだろう。仕事、雇用上の上下関係が人間としての上下関係と同じだと思っているのだろう。原発労働は”下等な仕事”と思っているから、そういう下等な仕事をさせるのは差別だ、という発想になるのではないのか。そうであるなら、その発想こそ、小出氏の心の奥にある無意識の差別意識そのものだ。
こういう話を聞くと、つい岡林の「山谷ブルース」を思い出す(笑)。
しかし、ちょっと思い出しただけでも、東京電力福島第一で原子炉を死守しつづけたのは、正社員だとか下請けだとかいった下らない区別を超えたひとたちだった。現場が、小出氏の言うような差別意識でやっていけるわけがない。小出氏は遠くの傍観者だから、差別がどうのこうの、美しいお説教を垂れているだけのことだ。
X X が差別の構造の象徴だ、というふうな物言いは、かつて全共闘あたりの世代がよく使った。「新左翼」。いまの若い青少年は知るよしもない。1960年代末、大学は”日本の支配構造の象徴”だった。ゆえに「大学解体!」のスローガンが登場した。左の写真にある帝大とはもちろん東大や京大。大学は”封鎖”された。学生はヘルメットとゲバ棒で武装した。キャンパスに火炎瓶が飛んだ。機動隊の催涙ガス弾が飛び、高圧放水車が激しい攻撃を加えた。小出氏も同じ世代で同じ時代の空気を呼吸していただろうから、発想がそのまんま化石のように今に生きているらしい。もちろんわたしは、小出氏が学生時代にその手の「新左翼」党派に関わったかどうかは知らない。ここではただ客観的な時代状況を書いているだけなので、誤解なきように。その”支配構造”の一角である京都帝国大学は解体も閉鎖もされず、東北帝国大学で学んだ小出氏はそこに就職して助教になった。
この世の中はいろんな人がいろんな立場でいろんな仕事を引き受けて暮らすことで成り立っている。下請けだの孫請けだのといえば、社会の多くの人が広い意味で誰かの仕事を請け負って生計を立てている。大学の先生みたいに、わたしは誰からも自由です、みたいなことを平気で言える”お山の大将”は多くない。世の中、みんながみんな”先生”だったら何も動かなくなるだろう。みんながみんな誰からも指図されない経営者であることができるのか。その意味で、こういう美しい倫理を語れるというのは、先生と呼ばれる人の特権ではある。
危険を伴う仕事は山ほどある。汚いものをあつかう仕事も山ほどある。みんなやってもらわないと困る仕事ばかりだ。それをやってもらうのは差別でも何でもない。例えば、小出氏は経験があるか知らないが、くみ取り便所から糞尿をくみ出して処理する仕事がかつてあった。ひしゃくで桶に入れて運ぶ。百姓は町人の便所からそれをもらって肥やしにしていた。もらうと言ってもたいがい百姓の方がわずかだが代金を払って買っていた。今でもバキュームカーはある。その仕事をしている百姓を差別する者がいるとすれば差別する者が悪い。糞尿が差別の根源なのではない。それとも、小出氏はくみ取り便所でウンコをしていたとき、このウンコを誰かに処理させるのは差別だなあ、と思いながらポットン落としていたのだろうか。
ウンコ話は楽しいので、ついでに。”トイレなきマンション”という言説があって、放射性廃棄物や使用済み燃料の処理のアテがないことを批判する。さて、そういう立派な批判を展開する人は、自分の出した糞尿を自分で処理したことが一度でもあるのだろうか。ボタンひとつ水で流せばいいって?。その快適な生活は、誰かがちゃんと処理処分してくれているから維持できている。家庭ゴミも同じ。大震災の後の便所がどういう悲惨な状態になるか。”トイレなきマンション”などと、他人の出したウンコの不始末をあげつらう前に、まず自分が生まれて以来出した糞尿を自分の手で始末したことがあったかどうか思い出した後で、他人のウンコを論評してちょうだいな。
ジャーナリストの佐々木俊尚氏の表現を借りれば、小出氏の言い様は典型的な”マイノリティ憑依”ということになるだろう。少数の”被害者”の味方のふりをする。
しかし、原発労働者から少しの被曝もさせないようにするということは、つまり今、原発で働いている労働者から仕事を奪うことを意味している。小出氏が本気で被曝の労働者を出したくなければ、その人たちに他の職をあっせんしてあげてから好きなことを言った方が責任ある態度だと思う。小出氏が推薦する差別のない”正しい仕事”を見つけてあげたらよろしい。
そもそも科学者でありながら、彼は被曝を白黒の二元論で語るというまちがいをおかしている。被曝するか被曝しないか。そういう二択問題にしている。現実はいうまでもなく自然界の放射線に人間はさらされているし、医療被曝もある。問題を科学者として論じるにはその被曝の程度、数値をすっ飛ばして語ってはいけない。それは学者でなくても分かるはずだが、彼はすっ飛ばして、美しい倫理を語る。白か黒か、と。そんな抽象的なことより、労働者の被曝を技術的にどうやって少なくするかを考えることのほうが、よほど前向きで価値があることだろう。そういう地味な思考をしないで、「差別」という人の注目を集めそうなキャッチ・コピー、感情に訴えるような善悪二元論に持っていくのは、科学者としてあまりに安易ではないのか。
かつて動物を処理する職業の人たちが差別の対象になった。ある民族はその民族故に差別の対象になった。
差別は人間の問題。原子力の問題ではない。たとえばハンセン病患者に対する差別というのは、ハンセン病そのものを無くせば消えるだろう。しかし、人間の差別意識そのものが消えるわけではない。差別はいつも心のなかに生まれ、心のなかで生きているものだからだ。したがって、原子力を無くせば差別がなくなるなどという戯言を大学の先生が言うこと自体、あまりにも幼稚な思考というほかない。差別は、材料さえ見つければどこにでもいつでも生まれてくる。その材料が差別の元だと言って材料を一々つぶしていったら、この世が消滅する。
注:福島菊次郎さんの写真集からスキャンさせてもらったけど著作権上はまずいかな。ごめんなさいね。
注2:補足的な冗談だけど、モノである原子力を無くせばその上部構造としての差別が無くせる、というのは一種の唯物論的ニヒリズムだね。